2014年(平成26年)2月10日号

No.600

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追悼録(516)

敗戦時の外相東郷茂徳

 開戦時、東条英機内閣でさらに敗戦時、鈴木貫太郎内閣でそれぞれ外相を務めた東郷茂徳が「外交の要諦とは交渉で一番大切なところに来た時、相手に『51』を譲りこちらは『49』で満足する気持ちを持つこと」との遺訓を残しているのを知った(2月5日毎日新聞)。そこで手元にある阿部牧郎著『危機の外相東郷茂徳』(新潮社・平成5年3月15日刊)を読む。なるほどすごい外交官だ。軍部独走の中、和平を貫こうとした男である。ソ連モロトフ外相の話を聞こう。ソ連では外相が外国大使公邸に訪問した前例はなかった。それを破ってモロトフが日本大使公邸に来た。昭和15年10月7日正午。東郷大使は間もなくモスクワを離任する時であった。「私は東郷氏ほど誠実かつ頑強に自国の利益を主張する外交官を知らない。また東郷氏ほど偏見や悪感情なしに我々を理解してくれた外交官を知らない。彼が大使の職にあったおかげで日ソ両国の関係は大きな波状を見ずに済んだ」。ノモンハン停戦交渉,日ソ漁業交渉などモロトフは高く評価したのである。実はこの時の外務省の人事異動は英米派を一掃するため松岡洋右外相が行ったものであった。後任のソ連大使は建川美次中将(陸士13期、陸大21期恩賜)のほかドイツ大使、大島浩中将(陸士18期・陸大27期)、イタリア大使、堀切善兵衛(政友会代議士・衆院議長)らが就任した。東郷茂徳はこの人事を不当として外相からしばしば辞表の提出を求められが頑として応ぜず昭和16年10月、東条英機内閣の外相になるまで頑張った。東郷外相の下で外務次官を務めた西春彦は東郷外相について「資性明敏、所信に忠実で、ことに軍部との折衝においてこれほど勇敢率直に行動した人は、外務省内にその比を見ない」と評する(西春彦著「わたしの外交白書」文芸春秋新社刊)。

 戦後、東条大将とともに開戦時の責任を問われ東京裁判の被告となる。ソ連検事の人物評「対ソ侵略の幹部的犯罪者」。判決は禁固20年、巣鴨刑務所で服役中病気となり昭和25年7月23日、蔵前橋の米陸軍361病院で亡くなった。享年68歳であった。残されたメモ中に歌があった。

 「いざ児らよ戦うなかれ戦わば
 勝べきものぞゆめ忘れそ」

 東郷茂徳は東京裁判で絞首刑の判決を受けた7被告と獄中で病死した7名とともに昭和53年、靖国神社に合祀された。

 

(柳 路夫)