2013年(平成25年)7月10日号

No.579

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安全地帯(399)

信濃 太郎


この秋『人生の余白』『ドクトル住吉・ヒマラヤ彷徨記』出版


 東京の気温35度、全国の熱中症患者900人を超す(7月6日)。この暑さにめげずにこの秋、出版される本の前書きなど準備に大わらわであった。

 一冊は自費出版でタイトルは『人生の余白』―陸士59期本科14中隊1区隊の戦後史―。もう一冊は日本山岳協会の尾形好雄さんがまとめている「ドクトル住吉 ヒマラヤ彷徨記」である。

 本の内容を紹介するには前書きが役に立つ。
「人生の余白」の前文は次のようである。
『米寿をむかえた。戦後68年、よくぞ生きながらえたと思う。昭和18年4月から昭和20年8月15日まで私たち陸士59期14中隊1区隊(歩兵科)の同期生は振武台(埼玉県・朝霞)、相武台(神奈川県・相模原)で祖国が風雲急を告げる中、死を覚悟して文武の道にいそしんだ。敗戦で軍人を挫折、戦後はそれぞれの道を士官候補生の矜持を忘れず懸命に祖国再建のために働いた。

 同期生の一人は「人生に余白のありて日向ぽこ」と詠んだ。戦後は私たちにとって「人生の余白」であった。その余白に日本のためにそれなりの彩りを添えたと自負する。入校時46名いた1区隊の同期生も現在は15名を数えるのみとなった。59期生の全国組織が解散する平成25年9月に区隊の戦後史をつづって私たちの「遺言」としたい』

 次に「ドクトル住吉 ヒマラヤ彷徨記」の序文を見てみる。
 『ドクター住吉仙也は詩人である。意外にロマンンチストである。ヒマラヤの花と蝶に魅せられ,鶴の群舞に酔う。初見参のヒマラヤを「やるだけ戦った 成否を何かあげつらう」と詠む。一見して“厚かましくズボラ奴”と見えるのは仮の姿に過ぎない。ヤク放牧のチベットの子供が彼につきまとい、シェルパたちが彼を慕う。黙っていてもテントに積もった雪を取り除く。馥郁と薫る人間に人は自ずと近づいてくる。

 住吉さんとは群馬山岳連盟のサガルマータの冬季南西壁登頂でご縁ができた。スポニチ登山学校でさらに深まった.折に聞く「ヒマラヤ彷徨記」は興味深かった。彼が名医であるのを知ったのは友人の塩田章君の本であった。盲腸になった少年の手術を見事な手さばきやってのけたと書かれている。サガルマータ登頂前にも腹痛の隊員を「脱腸」と診断、それを手で治す。以来”ゴット・ハンド“と崇められている。名医に見えないところが彼の真骨頂である。

 P−29に「住吉コル」の名を残す住吉さんは著名な登山家であるのを強調せねばならない。ヒマラヤに3度出かけている。それらの登山隊で日本人初登頂、秋季初登頂、冬季南西壁初登頂の栄光に輝く。その幸せもその人柄が招き寄せたといえよう。今晩のお酒はロキシー、それとも日本酒?。今日も話してください。「ヒマラヤ彷徨記」を・・・』

前者の本は9月に、後者は10月ごろ出版の運びである。乞う。ご期待である。