2013年(平成25年)5月1日号

No.572

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追悼録(488)

迫水久常さんを偲ぶ

 

 終戦の詔勅を調べているうちに時の官房書記官長・迫水久常さんのことを知りたくなった。この人の仕事ぶりが丁寧で緻密であり、いろいろと教えられるところが多かった。終戦の詔勅について言えば,宣戦の詔勅には漢文の文法上重大な誤りがあったので原案を私淑する安岡正篤の意見によって「永遠の平和を確保せんことを期す」の部分が宋の末期の学者張横渠の文章を借用して「万世に為に太平を開かんと欲す」という文言となったという。この一句が終戦証書の眼目となった。

 終戦の鈴木貫太郎海軍大将内閣は昭和20年4月7日に成立する。この際,岳父岡田啓介海軍大将に頼まれ大蔵省銀行保険局長から内閣書記官長となった。時に43歳であった。表に出さなかったが鈴木首相は初めから和平を考えていた。好きな言葉は老子の『治大国者若烹小鮮』であった。大きな国を治めるには小さな魚を煮るに似ている。とろ火で無理をしないでやらないと形が崩れてしまう。焦ってあまり箸でつついたりしてはいけないという意味である。

 面白いエピソードがある。迫水が内閣書記官長に就任したと聞いた迫水の古い米国の友人、マックスウェル・クライマンがインドのカルカッタからニューヨークの外交官の友人に「必ず戦争は半年内で終わる。それに対して自分は賭けても良い」と手紙を出したという。人の動きでも世界情勢は判断できる。

 鈴木首相は「若烹小鮮」の文字通りのことを実行された。組閣草々鈴木首相は迫水書記官長に国力の調査を命じた。迫水はこの調査にあたる内閣総合計画局長に自分も尊敬し、軍部も信頼する秋永月三陸軍中将を当てた。秋永中将は陸士27期・砲兵・大分出身。東大経済学部も卒業している異色の軍人であった。調べてみると、鉄の生産は月産10万トンに満たず予定量の3分の1程度にすら及ばず、飛行機生産は予定の半分以下であった。船舶はどしどし撃沈され、外洋を航海しうる船舶は年末にはゼロの点に達すると見込まれた。油やアルムニュームは生産が激減していた。また空襲も激化し、国内の生産が組織的に運営できるのは9月を限度とすることなどが明らかになった。これでは戦争を遂行するのは無理であった。

 諸葛孔明の「ことを図るは人に在り、ことを成すは天に在り」を愛した迫水久常は昭和52年7月25日75歳で死去した。

 


(柳 路夫)