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再び「終戦の詔勅」の謎について
牧念人 悠々
前号の「安全地帯」(「新聞・出版物に歴史あり」)で「終戦の詔勅」の原文と新聞発表(昭和20年8月15日朝刊)の「終戦の詔勅」の違いを指摘した。つまり私の手元にある「終戦の詔書」の原文のコピー(当時の首相鈴木貫太郎以下16人の大臣の副署がある)には新聞発表にある「頻リニ無辜ヲ殺傷シ」の9文字がない。これは確かなことである。昭和天皇が録音される時にはこの原文(詔書)を読まれた。だからNHKで放送された際にはこの「頻りに無辜を殺傷し」の文言をお読みにはならなかったはずである。NHKの元アナウンサー西田善彦さんとこの問題について話し合っているうちに、パソコンのユウチューブに「終戦の詔勅」が録音されているのを知った。早速聞いた。ところが、この録音は声優が録音したもので、昭和天皇の声ではない。これは西田さんも友人の霜田昭治君も同感で「天皇陛下と明らかにトーンが違う」「文字を追った読みかたをしており雑である」「声に気品がない」という感想であった。しかも新聞発表の「終戦の詔勅」を読んでいる。昭和20年8月15日に放送されたものではないのは明かであった。パソコンの情報を直ちに信用してはならない。おそらく多くの読者がこの録音を聴いて陛下の声と信用するであろう。怖いことである。
霜田君から次のようなメールが届いた。「銀座一丁目新聞の『安全地帯」』終戦の詔書にまつわる『無辜』の抜け落ちは初耳でした。何故抜け落ちたのか?全くの個人的見解ですが、『宣戦布告の詔書』とも関係があったのではないか。 以前貴紙で取り上げて頂いた拙文『日清戦争〜大東亜戦争の四つの宣戦布告』ご参照ください(注・『銀座一丁目新聞』2007年8月10日8月10日号「茶説」)。
『億兆一心総国家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スル(大東亜戦争宣戦布告詔書)』
当時の日本は「銃後」はありましたが、総力戦、国民皆兵の概念は「無辜の民」を死語にしたと思います。無差別爆撃・原爆を正当化した米側の理屈もその辺からきています。併し、彼等は原爆で‘無辜の民’を殺戮したのを忘れたように、戦後は白々しく、戦争の責任は軍閥にあって国民はその被害者=無辜の民として処理し、マスコミもそして国民もこれ幸いとGHQの論理に便乗しました。そして歴史教育もその方針で組み込まれ現在に及んでいます。戦後のそして昨今の、西欧の政治支配に立ち向かう近代兵器で武装した民族主義者や教団組織との争いは無差別攻撃合戦であり、被害者の多くは「無辜の民」であるが、実態は死語になっていると思います。誠に悲しい事ですが之が現実の世界です」
毎日新聞時代の友人堤哲君からもメールがきた。「銀座1丁目新聞を読んで、終戦の詔書は新聞社には事前配布されたのではなかった、と思い、森桂君から送られた『森正蔵日記』のDVDで見てみました。8月15日のところに、詔書が貼ってあります。毎日新聞に掲載されたものと思いますが、『 頻リニ無辜ヲ殺傷シ』は入っています」
森正蔵さんは当時毎日新聞の社会部長である。8月14日に日記によると、15日に天皇陛下が「終戦の詔勅」を放送されることを知っている。「和平交渉の経過、内容、および戦争終結に至るまでの状況等は明日の新聞に発表される。この新聞には勅語も掲載されているのでご放送の済んだ午後零時以後に配布されるはずだ」とある。新聞各社に事前に配布された「終戦の詔勅」は「頻りに無辜を殺傷し」を削除前のものであったとみるほかない。どうしてこのようなことが起きたのか。関係者が亡くなっているので確認ができないが、内閣書記官長迫水久常が起草したものを最終段階で安岡正篤(大東亜省顧問・漢学者)が推敲を重ねたうえ、問題の9文字を削除したものと推測する。8月14日の陛下の録音時刻が遅れに遅れて午後11時過ぎになったと記録にある。新聞発表用の原稿は最後の推敲直前のものを配布したのであろう。見出しに歴史ありと痛感する。
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