花ある風景(452)
荒木 盛雄
隅田川橋巡り・観桜の旅
昨年に続いて二回目の参加(4月7日)。昨年同様に同期生の霜田昭治・牧内節男両君と同行。浜松町駅南口に十時半集合、総勢四十八名。船宿「縄定」にて、イヤホーン、資料、缶ビールをもらい乗船所に向う。前回を違いかなり歩く。浜崎橋を渡り対岸からの出発。乗船すると私の歩くのが遅かった為席は一杯で、簡易な腰掛で船尾の方に座る。
十一時東芝浦橋出発、舟は成瀬丸(定員五十名)。解説者「橋の語り部」は、伊東孝氏(日本大学特任教授)。橋の種類には大きく、けた橋、アーチ橋、吊橋、トラス橋に分けられると。船は滑るように進むが川風はかなり冷たい。左に恩賜公園浜離宮を眺めながら、潮入り庭園の話を聞く。間もなく都民の台所魚河岸が大きく続く。佃大橋から中央大橋(斜張橋=吊橋の一種)に進む。間もなく右に大きく旋回、晴海運河に入る。相生橋、晴海橋(けた橋)、晴海大橋、豊洲大橋と進む。
レインボーブリッジ(吊橋)を右に見ながら左に進むと、左にお台場が見え、桜が満開でした。フジテレビ(丹下健三設計)の次に船の形をした「船の科学館」があり、その奥の方には南極で活躍した宗谷丸が繋留されている。コンテナーターミナルが長く続く。豊洲運河は第一航路で、その幅は二〇〇―三〇〇メートルも有りそうで堂々たる大河のよう、豊富な水を称えて悠々と流れている。東京にこんな川があることを知らない人が沢山いるだろうと思った。
丁度十二時東京ゲートブリッジの下をくぐる。トラス橋で長さ二六一八m、本年二月十二日開通した。高さは航空機を考慮して高さ制限、橋は溶接により造られたと。左にゴルフ場やサイクリングロードが見える。風強し。十二時三十分京葉線の鉄道を過ぎ、東西線・荒川中川橋梁を過ぎると、荒川で一番美しいという河西橋に着く。
十二時四十五分荒川ロックゲートの閘門を通過し小名木川に入る。この門は東京都の管轄で、職員は日曜には不在で通過出来ないと。病院始め日曜にも仕事をしている施設が多いというのにそんな事が許されるのかと、不思議に思われた。ここでは水面を一m下げて小名木川に出る。護岸工事が行われて両岸は遊歩道になっていて、若い柳の木が植えられ、辛夷・海棠などが咲いていた。番所橋、砂島橋、新開橋を過ぎ、貨物鉄橋(小名木川橋梁・トラス橋)、X字状にクロスするクローバー橋、おなぎり橋、小松橋(トラス橋)と過ぎる。見るとカヌーを漕いでいるのが三艘見えた。扇橋閘門に至る。前扉を通ると扉が閉じ、今度は水位が一メートル上がる。閘門を過ぎるとカヌーの数が増えていた。新扇橋(アーチ橋)、新高橋、大富橋、東深川橋、新深川橋、高橋と過ぎる。更に万年橋(アーチ橋)(江東区と書いてあった)から隅田川に入る。左折して少し下流に向い隅田川の橋で最も美しい橋といわれる清洲橋をくぐる。清洲橋のたもとに戦前伯父が医院を開業していたが、三月十日の大空襲で全焼、清澄庭園に避難して全員生き延びたと聞かされた。隅田川大橋を過ぎ永代橋を前に見ながら右に曲り日本橋川に入る。豊海橋から湊橋を通る。左に霊岸橋が見えた。茅場橋を過ぎるとゴムボート様のボートに救命胴衣を着けた外人がぎっしりと乗り、手を振っていた。はるばる日本まで来て、こんな川を巡っている外人も居るんだと妙に感心した。鎧橋、江戸橋から日本橋(慶長八年・一六〇三年架橋)に至る。日本橋の下で船はサービスで止まる。ゆっくりとお江戸日本橋を下から眺める。色々の街灯のたたずまいを見る事が出来た。西河岸橋、一石橋、常盤橋が二本、新常盤橋、大正七年架設のJRの橋をくぐる。橋桁の中央に旧国鉄の紋章が見られた。大正十二年の九月の関東大震災にも耐え抜いた堅固な橋と。鎌倉橋、神田橋、錦橋と進む。左岸の石垣は江戸城の石垣が使われ、当時各藩に分担して造らせたが、裕福な藩とそうでない藩とで石の大きさ・積み方が異なり、石垣に担当した藩の印が付いていたという。この辺り河岸の桜並木が満開であった。一ツ橋、雉子橋、宝田橋と続く。左に船着場があり、千代田区の管理で、緊急の場合の避難に使用されると。俎橋(靖国通)、南堀留橋、堀留橋、新川橋(貨物駅)、あいあい橋、新三崎橋、JR中央線の下を過ぎ右に曲って神田川(人工河川)に出た。後楽橋、水道橋と過ぎる。左に順天堂大学、東京医科歯科大学の病院が威容を誇って見えた。右遥か上方に総武線御茶ノ水駅が見える。聖橋の下を通る時手を叩くと反響し、鳴き龍のようであった。聖橋は関東大震災の震災復興橋の一つとして架橋された。文京区側の湯島聖堂と千代田区側のニコライ堂、二つの聖堂を結ぶ橋として、一般公募で名付けられた。立体的な橋脚は下から見上げた際に最も美しく見えるようにデザインされているという。昌平橋を過ぎると右側に旧交通博物館の建物が見える。次の万世橋は地下鉄銀座線の上にある。山手線の下を抜け神田ふれあい橋、和泉橋、美倉橋、左衛門橋を過ぎる。屋形船が多数繋留されていた。屋形船は江戸時代より現代は多いと。その後浅草橋、柳橋を過ぎ隅田川に戻り、両国橋を右に見て隅田川の上流へと遡る。JR総武線の鉄橋の下をくぐる。右に両国国技舘を見、両側の護岸は良く整備され、テラスギャラリーや遊歩道にもなっている。戦前隅田川にポンポン蒸気船が通っていたころの面影は全くない。黄色の蔵前橋(アーチ橋)、厩橋、駒形橋、吾妻橋を過ぎる。両岸は隅田公園になっているが、昨年は咲いていなかった桜が満開。大勢の花見客で大賑わい。桜の彼方に完成したスカイツリーが見えたが、特にアサヒビールの金色の壁面に反射して綺麗に映っていた。東武伊勢崎線の鉄橋、言問橋、Xの形の桜橋、白髭橋(トラス橋)を少し過ぎた所でUターンし下り始める。再び吾妻橋を過ぎた左岸の船着場に着き十五時五十分下船した。
約五時間弱の船旅、その数の多い事、種類の様々な事を知った。これは実際に経験しなければ分らない事。途中風が強く寒く、船の上で身体を動かして耐えたが、各地の桜が見ごろで面白い旅であった。今年も誘ってくれた霜田・牧内両君に感謝する次第。来年の事をいうと鬼が笑いそうだが来年にも期待しよう。
終りに拙句を。二日前(四月六日)の隅田川花見吟行の句を含む。
電波塔ビル壁に映え風光る
仏生会庭に飛び交ふ外つ国語(浅草寺)
仏生会外つ国人の賑はへり
電波塔と競ふがごとく若桜
電波塔を背に若桜競ひ咲く
満開の花の合間に電波塔
花を愛で歩く墨堤一万歩
電波塔の影くつきりと風光る
花見船スカイツリーも揺れてをり
小名木川護岸通りに花海棠
閘門の扉閉じたり百千鳥
悠々たる運河の流れ蜃気楼
戦禍濃き言問橋に花万朶
工事終へたる岸にこぶりの花辛夷
花見つつ巡る隅田の橋の数