2012年(平成24年)3月20日号

No.533

銀座一丁目新聞

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追悼録(448)

耳鼻咽喉科の名医熊沢忠躬君を惜しむ

 

 同期生で耳鼻咽喉科の名医と言われた熊沢忠躬君が亡くなった(2月6日・享年86歳)。昨年10月20日に開かれ太全国大会に出席の返事を出してきたが直前になって「このほど検査で体の異常が見つかったので出席を断念する」とわざわざ手紙で知らせて来た。早速「養生して早く元気になってください」と返事を書いた。それからわずか5ヶ月後に訃報を聞くとは驚きであった。熊沢君とは彼が工兵、私が歩兵と兵科が違うが同じ中隊の同じ兵舎で寝起きした。場所は神奈川県相模原にあった陸軍士官学校。激しい訓練の中常に国のため死ぬことを考えた仲間である。熊沢君は戦後京都大学医学部に進み、当時の主任教授と意見合わず、卒業後はアメリカに留学、耳鼻咽喉科を専門とする。次第に頭角を現し、関西では耳鼻咽喉科の先生としてその名が喧伝される。昨年の本誌「花のある風景」に書いたことだが、彼を偲んで主なところを採録したい。昨年の5月、30年前に出した随筆集『十年有半』(復刻版)は非常に面白い。松下幸之助さんも彼の診断を受けた患者の一人である。巻頭言で松下さんは熊沢先生から「喉には“沈黙が唯一の療法”と言うおさとしを受けましたが、仕事柄しゃべりたくない時でもしゃべらざるを得ず、これ以上不良患者はいないと思います」と書いている。さらに彼が『科学者に要求される最も大切なモラルは謙虚と友好心である』との意見に私たちの世界でも同じであると共感しておられる。

 この随筆集で初めて知ったことだが「耳くそ」は人種によってその成分が違うそうである。欧米人、黒人はウエットで俗にあめ耳と言われるものが多く、やわらかいから素人でも取れる。東洋人はドライなものが多く、もし栓塞すると専門家でないと取れない。この耳くそ除去で熊沢君がフィリピンの対日感情好転に一役買ったというから驚きである。カンランオン市に医療奉仕に行った時のことである。彼の元に幼児から老人まで難聴を訴えるたくさんの人たちが集まってきた。そのほとんどが生れて以来の耳垢栓塞であった。しかも耳の奥までぎっしりとセメントを固めたように詰まり取り出すことが容易ではなかった。幸いにも特殊な薬、機械を持ってきていたので時間をかけて取り除いた。中に女性市会議員がいて医者からメニエール病と言われていたのをこの耳垢除去によっていままでの難聴、めまい、耳鳴りから即座に解放された。喜んだ女性市議は「生き返ったようだ」と逢う人に宣伝したそうである。「耳くそ」と言うなかれ、立派に日本外交の役割を果たしている。全国大会の翌日、神奈川県座間にあった陸軍士官学校(現在陸上自衛隊座間分屯地)を見学、彼とともに昔をしのぶはずであった。それが熊沢君もかなわず、永遠別れとなったのは返す返すも残念である。


(柳 路夫)