2011年(平成23年)9月10日号

No.514

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茶説

人間の業・井上ひさしの場合

 

牧念人 悠々

 西館好子さんの著書「表裏井上久協奏曲」(牧野出版・2011年9月7日発刊)を読む。西館さんはスポニチ時代に知り合い、紙面で事業面でも助けていただいた。一言で言えば“気の強い才女”である。井上ひさしさんは演劇を通してしか知らない。珠玉のようなセリフを紡ぎ出す才能、創造力、想像力にはいたく敬服している。離婚するまでの25年間の二人の生活をかいま見ると、井上ひさしの才能を開花させたのは西館さんだと想わざるをえない。井上ひさしさんが妻に暴力を振るったなどとは想像も出来ない。子供の時から親子関係が希薄で温かい家族的雰囲気を知らない井上ひさしさんであった。妻への暴力沙汰は失われた「温かい家族関係」をあこがれる自分自身への嫌悪感の表れではなかったのか。

 本書には「菖蒲湯、ゆず湯と言った江戸の名残をそのまま持ち続ける好子さんの家では井上さんは異邦人であった」という記述すらある。

 評判をとったNHK番組「ひょっこりひょうたん島」は「親不在」という設定であると著者は指摘する。「子供達もそれぞれのキャラクターを作り、親は一切出てこない。血縁のべたべたしたところはカットして子供を乗せた島は、そのまま現実離れしたユートピアへと出発する」。それで視聴者から大いに受けた。登場人物が面白かったと言うほかに「島が漂流する」という発想が抜群であったからであろう。「文章はその人の人柄を表す」と言う。とすれば、「妻に振るう暴力」の中身が問題となる。井上ひさしの「親との関係が薄く、家庭の温かみを知らない」のは強みとなりある時は弱みとなりマグマのように噴出するということであろう。好子さんはそういう井上ひさしさんの心理的葛藤について冷静に分析する。

 2010年4月10日井上ひさしさんは死んだ。だが長女都さん次女綾さんは生前父親を見舞うことが出来なかった。井上ひさしさんが「会いたくない」と拒絶されたからである。「都」と言う名は「都落ちしたくない」「この子を何不自由させないように働く」「一花咲かせることを自分に課す」「落ちぶれて田舎に帰らないこと」と言う井上ひさしさんの娘誕生に際しての覚悟であったという。

 長女誕生が昭和38年、離婚、再婚が昭和61年、この23年間に人間井上ひさしは変わってしまったのだろうか。親と実の子の間柄ではないか。どのようなことがあろうと「赦す」のが親の愛情であろう。それを認めなかった。平和憲法の9条を守る意見広告にも動き、民本主義をやさしく説いた劇作家が共存する。人間の裏表と言えばそれまでだが、そこに井上ひさしの業の深さと人間の性の恐ろしさが秘められている。

 「こまつ座」は昭和58年に結成された。その名前は井上ひさしさんの郷里の地名「中小松」からとったのだという初めて知った。『頭痛肩こり樋口一葉』の題名は、はじめ「なんだ坂 あんな坂」であった。それが古本と格闘した結果、竹内勇太郎著『小説樋口一葉』の中ら『頭痛や肩こり・・』の事実を見つけた。それだけ井上ひさしは凝り性であった。劇作の裏作業が見えて興味深かった。

 「難しいことをやさしく、やさしいことを深く広く」と言う井上ひさしさんは物事を自分が納得行くまで調べる。だから遅筆となる。脚本が遅くなり、上演が延びることがしばしばおこる。そのトラブルは家庭の中にも及ぶ。離婚するにはそれなりのエネルギーを必要とする。その簡の心の揺れを好子さんは適確に記す。

 本書は一編のドキュメンタリードラマである。文章も巧みで昨今の直木賞、芥川賞より読み応えする。