作詞家星野哲郎さん(昨年11月15日死去・享年85歳)が作った朗読詩集の序文にサトウハチロウーの言葉がある。
「星野哲郎の詩には
雨に濡れた敷石賂がある
遠くに見える教会堂の
とがった屋根がある
友達の方を静かにたたく
やさしい手があり
友達の泪をふぃてやる
大きなハンカチがある・・・・」
星野哲郎さんとはスポニチ在職中知り合った。聞けば、私と同じ年で、戦時中東京高等商船学校(東京越中島)に入学、清水分校で訓練を受けたと言う。私の大連時代同じ寄宿舎にいた大連中学の友人が同じ時期に東京高等商船学校に入ったので何となく親近感を感じていた。戦後、友人は外国航路の客船の船長になって定年を迎えた。星野さんは体をこわして作詞家の道に入り、死ぬまで現役であった。
作詩は4000曲になると言うから驚きである。詩はどのようにして思い浮かぶのか。私は企画や材料探しをする場合には画集をぱらぱらとめくったり書棚の本を取り出し拾い読みなどをしたりする。星野さんは“メモ魔“であったようで、人のいった言葉などを紙ナプキン、箸袋に書き留めた。たとえば、トイレのドアが開かないので怒鳴った男に女将いった。「押して駄目なら、引いてみなよ」。星野さんがメモに書いたその言葉はやがて水前寺清子のヒット曲になる。「おしてだめならひいてみよ」である。新宿で飲んでいた星野さんの大宮の女性から電話が掛かってきた。声は分かるが名前が出てこない。「何て名前で出ているの。大宮じゃ」女性は答えた。「昔のままよ。わたしていつもそうじゃない」。「昔の名前で出ていますか・・・」と星野さんはメモした。やがて小林旭が歌う「昔の名前で出ています」の詞となる。文章と詩とは違う。単なるメモだけでヒット曲の作詞ができるわけがない。詩は耳から入る。星野さんは感性も鋭く、耳が良かったのであろう。
星野哲郎さんを師と仰ぐ元スポニチの役員・編集局長の小西遼太郎さんはその著書「海鳴りの詩」−星野哲郎歌書き一代―(集英社刊・1993年10月第1刷)のあとがきに「道を歩けば、必ず道を歩いている人に会える。人間関係、大事なのはそこだけさ」と言う星野さんの言葉を紹介し、小西さんは「道と言う言葉は意味が深い。さすが詩人だ」と言い、「操と志を持った人であれば必ずどこかで会える」と解釈した。星野哲郎さんはそういう人であった。
(柳 路夫) |