安全地帯(303)
−安田 新一−
治にいて乱を忘れず
先日、政府の仕分けの中に「スーパー堤防の廃止」という議題がやり玉に挙がっていた。私はこの件については代々、東京に生まれ育った古老として一言申し上げ、認識を新たにして貰いたい。時は、大東亜戦争戦後間もない昭和22年(1947)9月、カスリーン台風(中心気圧960ミリバール)という大型の雨台風が房総半島をかすめ、14日から15日にかけて関東平野の水源地付近の山々に猛烈な豪雨を降らせた。秩父611o、日光467o、前橋391o、箱根532oと言われる。加えて水源地は戦中、戦後の山林の伐採や荒廃により保水力が低下していたのである。もはや70数年前のこと、洪水にあわれた方も少なくなっていると思うので「天災は忘れた頃に来る」というこの事件を参考にしていただきたい。水源地方面に降った豪雨は関東平野の各河川に濁流となって流入、特に最大の利根川は支流の河川も含め警戒水域を突破して遂に、渡良瀬川の合流付近で堤防が決壊した。その濁流は利根川より枝分かれしていた東京湾に流れる各河川も増水、堤防も決壊させて中川流域下町一帯が氾濫、進駐軍の工兵隊が出動、その水を江戸川に流すべく堤防を爆破したが成功しなかった。とうとう利根川の水が9月20日には東京湾に流入した。
実は私は妻から体験を聞いた。当時20歳ぐらいで千葉県市川市に在住、東京の大学に通学していた頃で総武・京成線は不通になり渦巻く濁流の鉄橋を歩いて渡ったこと、又東京へは浦安から築地まで人員輸送のため出た漁船に乗り、米を持って(当時は米持参でなければ止めてくれなかった)知り合いであった本願寺へ泊ったことなど。やはり古老の言う利根川の水が氾濫すれば下町から江戸湾に流れ込むと言う言い伝えは本当であった。あのあたりの農家の納屋には天井に舟がつるしてあったところもあった。人的被害は死者1077名、行方不明者853名、負傷者1547名に及んだ。
ある人が亀を買ってきた。あくる日死んでしまったので文句を言いにいったらそれは万年の一日前だと言われたという笑い話があるが、世の中「先見の明」より「一寸先は闇」の方が我々凡人にはピタッと来る‥そこで国民の負託うけた賢明な政治家諸氏に考えていただきたい。10年、100年、1000年とかいつになるかわからないが「天災は忘れた頃のやってくる」。実際は懐の都合を優先し、変な(?)理由をつけてスーパー堤防の仕分け作業をしているのでは、あの災害でなくなった人々が浮かばれぬ。もう少し勉強してほしいのである。天に蓋は出来ない。緑を守り豊かな山林、自然破壊を防ぎ「コンクリートから人へ」といささかカッコよく感傷的で結構だが、気の遠くなるような長期計画のダムや堤防の構築を禁止し、後世に憂いのない治水に対案があるのか?舌鋒鋭い仕分けの方々は、まさか無責任に言いまくっているのではないだろう。振り回される国民は?為政者の長期展望の対策やいかに。
新聞に八ッ場ダム現場視察の国交大臣が「中止の方向性には言及しない。ダムの必要性を予断を持たずに検証する」言明したとある(11月8日)。あのダム候補の吾妻川は、利根川に注ぐ暴れ川の一つである。戦後、日本史を選択科目にして教育を受けてきた方々、よくよく関東の歴史の勉強(検証)を。当時の被害者に合掌しつつ、いつもながらマユにツバをつけて見守るしかない。
|