2010年(平成22年)11月20日号

No.486

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花ある風景(401)

並木 徹

 朗読劇「少年口伝隊1945」

 

 こまつ座の朗読劇「少年口伝隊1945」を見る(11月16日東京・新宿・紀伊国屋サザンシアター)。舞台は昭和20年8月6日広島で被爆した3人の小学校6年生を中心に展開する。物語の軸は被災し、社員113人を失い輪転機も消失した中国新聞がニュースを伝えるため組織した「口伝隊」に参加した少年達の活躍である。そこに一貫するのは井上ひさしの「記憶せよ 抗議せよ そして生き延びよ」のテーマである。「父と暮らせば」(1994年)「紙屋町さくらホテル」(1997年)に続く作品である。

 女性社員は3人の少年に口伝隊の心得を教える。「大事なことはただ一つ必ず太い声で読まんさいよ」少年たちはメガホンを片手に県知事や軍管区からの情報を読み上げる。もちろん行方探しの告知もする。神戸淡路大地震の際、地域の細々したニュースが被災者に喜ばれた。

 広島は学都であった。広島高等学校、広島高等師範学校等があった。軍都でもあった。日清・日露戦争では大本営がおかれた。陸軍第5師団司令部、歩兵第11連隊があった。大東亜戦争ではこの地から南方へ多数の兵士が送られた。日本全土がB29の空襲を受けたのになぜか広島は空襲を免れていた。様々な憶測が飛び交う。運命の日が来た。その残酷さを朗読で12名の俳優が伝える。その日のうちに12万人を殺し、その年のうちに合わせて14万人の命を絶つ。20万人が負傷した。かってはその原爆について“きれいな原爆”“汚い原爆”論争があった。今は原爆保有をめぐって他国が原爆を持つのに反対して核廃絶を唱える矛盾を犯す。

 少年たちの相談役として登場する“哲学じいさん”は県・市の達しに市民が実行不可能な時はいちゃもんをつける。少年たちへのじいさんの戒めの言葉。「声の大きか方へ、太か号令の方へ、よう考えもせずに靡いてしまう癖が、人間にはあっとてじゃ。太か号令は、そのときは耳にうつくしゅう聞こえるけえね。このような現実を作ってしまうたんは、そのくせのせいかもわからん」

 会議でもそうだ。声の大きい者の言うことに賛成しがちである。日本人は大勢順応型であり、付和雷同人種である。今も変わらない。
復興に励む広島に台風の追いうちがかかる。9月17日から18日にかけて襲った『枕崎台風』である。最低気圧910HPA,広島市内で土石流が発生、1156人が死亡、大野町(現廿日市市)では陸軍病院が直撃を受け、被爆者を含め100人が死亡する。広島の復興がさらに遅れる。

 朗読は続く。「亡くなった人たちはたくさんのことを知っています。でも語るすべもなく、ゆっくりと揺れています」。3人の少年も昭和35年までに次々に原爆症で死んでゆく。この作品を執筆当時、井上ひさしさんは「世の中の見えないものを見えるようにするのが、われわれの仕事。だから伝えていく責任がある」と言ったという。私は思う。「戦後65年日本人が忘れた美徳を思い出させるようにするのも我々の仕事。だから伝えていこう」