安全地帯(285)
−信濃 太郎−
三上卓直筆の『青年日本の歌』に感あり
手元に5・15事件・三上卓さんの直筆、『青年日本の歌』のコピーがある。1番から10番の歌詞が書かれている。書きなれた達者な筆遣いである。7・5調の名文がバランスよく並ぶ。墨痕鮮やかと言うより繊細な感じを受ける。『昭和5年5月於 佐世保軍港一夜概然作之 時年二十四也』『昭和7年5月5・15事件以来既重過35年初一念今尚存』とある。『青年日本の歌』が昭和5年5月に佐世保で作られたものであるのをはじめて知った。時に年齢は24歳。三上卓さんは大正15年3月海兵54期生として卒業している。卒業5年目で「権門上に驕れとも国を憂ふる誠なく財閥富を誇れとも社稷を念ふ心なし」(2番)の心境に至ったのか。敗戦で軍人の道を閉ざされた私は24歳の時は新聞記者、察回りで事件の取材に明け暮れていた。
友人別所末一君の話によれば、昭和40年、三上卓は香川県小豆郡土庄町で講演をした。そのとき役場で収入役をしていた陸士59期生の32中隊3区隊長を務めた鷹尾敦さんと会った。雑談をするうちに兄・鷹尾卓海・海軍大佐が三上さんの尊敬する海兵53期生で、在学中親しく指導を受けた先輩であるのがわかった。そこで記念にと一筆したためたのが「青年日本の歌」であった。鷹尾さんは陸士53期で別所君の区隊長であった。別所君は区隊長からその直筆をコピーしたものを頂いたのであった。
5・15事件には卒業直前の陸士44期生が10名、本科1年生の45期生1名(ほかに延期生で45期となり,退校した元士官候補生が1名いる)がそれぞれ参加している。そのうちの一人が「5月15日の日曜日の朝、外出の服装検査を終え、市ヶ谷台を下り再び帰ることのない校門を出た心境を」問われて「なにも考えてない。ただ無心であった」と答えている(桑原嶽著「市ヶ谷台に学んだ人々」文京出版)9番の歌詞にいう「功名何か夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰か論ふ」。
退校処分となった士官候補生は軍事法廷で一律に禁固4年の刑を受け、三上卓海軍中尉ら海軍士官は15年の禁固刑であった。
現代の日本の状況はどうか、政治は混迷。普天間基地移設問題は迷走の結果「辺野古」へ回帰、沖縄県民の怒りを買った。鳩山由紀夫首相に政治的リーダーシップは見られない。赤字国債を乱発、財政は危機的状況にある。国民に迎合してばらまき政策をしている状態にはない。早く消費税を上げざるをえない時期に来ている。巷では、有識者がしたり顔してテレビで空論を説き、若者が朝からパチンコに打ち興じ、休みとなれば海外旅行に出かけ平和を享受している。「嗚呼人栄え国亡ぶ 盲ひたる民世に踊る 治安興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり」(3番)。
中国には50年後に日本が中国の自治州と記した地図があるという。アメリカの50番目の州になった方が良いという人もいる。三上卓さんが死んだのは昭和46年10月、享年66歳であった。その直筆に「初一念今尚存」とある。その想いをこの歌に託したのであろう。今は民主主義の世の中、性急な結論を求めるべきではなく愚直に言論と選挙でこの世を正してゆくほかあるまい。「天の怒りか地の声か そも只ならぬ響きあり 民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ」(6番)。気長に日本の朝ぼらけを待つことにしよう。
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