2009年(平成21年)10月10日号

No.446

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安全地帯(263)

信濃 太郎

第一次大戦の講和条約(大正精神史・政治・外交)
 

第一次世界大戦は大正3年(1914年)7月28日に始まり大正7年(1918年)11月、連合国側の勝利に終わった。日本は敗れたドイツが持っていた南洋諸島を委任統治領とし、山東半島のドイツの利権も継承した。大正8年4月、パリで開かれた講和会議で国際連盟が成立し、日本もその常任理事国の一つとなり、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと肩を並べる五大国になった。戦争の軍需景気で海運界は活気づき、日本経済は大発展し、“成金”という言葉さえ生まれた日本は資本主義国家としての基礎を固めることができた。五大国といっても先進列強国と競争の時代への戸口に立ったに過ぎない。明治維新から50年、シベリア出兵、米騒動はその戸口に立つまでに踏まなければならなかった試練だった。
 パリ講和会議に触れる。27ヶ国の代表が出席したが、主役はイギリス首相、デイビッド・ロイド・ジョージ、アメリカ大統領、ウッドロウ・ウイルソン、フランス首相ジョルジュ・クレマンソーの3人であった。イギリスの講和使節団に大蔵省委員として参加していたジョン・M・ケインズは政治家によって作られた「講和会議」について世界の王子(ウイルソン)王(クレマンソー)魔女(ロイド・ジョージ)による《童話の世界》の比喩に託して表現する。「王子ウイルソンは帆船『ジョージワシントン号』で船出して彼の母でありまた花嫁でもあった、乙女・ユーロッパを束縛と迫害といにしえの呪いから解放しようとパリの魔法の城へ乗り込んできた。百万歳を超える王とそのそばに魔女がハープを手にして、王子の作った歌を不思議な調べで歌っている・・・」というものであった。イタリアと日本は影が薄かった。中国代表の姿もあった。途中単独で休戦したロシアと敗戦国、ドイツはよばれなかった。大正7年11月11日休戦条約が成立した時、ロイド・ジョージは次のように述べた。
 「かくして、この運命的な朝がすべての戦争の終わりであると言えることを希望する」第一次世界大戦は2000万人が戦死、ヨーロッパ各地が戦場となり荒廃した。5年間も各国が総力戦で戦った。「たいした重要でないバルカンの危機を世界戦争にした」からである。ロイド・ジョージの希望は21年ももたなかった(昭和14年・1939年9月3日第二次大戦始まる)。
 ヘンリー・A・キッシンジャーはその著書「外交」(上・岡崎久彦監訳・日本経済新聞)見逃せない指摘をする。当時フランスは少子化に悩んでいた。1880年、フランスは全ヨーロッパの人口の15・7%を示していたのに1900年には9・7%に落ち込んでいた。1920年フランスの人口は4千100万人であったのに対してドイツの人口は6千500万人であった。フランスの政治家プリアンは「自分は外交政策をフランスの出生率に基づいて実施している」と答えている。現代の日本の政治家にその自覚ありや。
 さらにフランスがドイツの脅威に対する具体的な保証を求めたことに関連して「外交官たちの間では、信頼という言葉はあまり使われない。国々の生存が危殆にひんしている場合、なかんずくフランスのような一国が不安定な状況に置かれている場合、政治家達はより具体的な保障を求めるものである」と理解を示している。個人同士の付き合いには「信頼」は必要だが、国同士には「信頼」よりも具体的な「保障・条約」が欠かせない。日本はそれを混同して国を相手にする時にも「信頼」を口にする。日本国憲法が典型的な例である。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」と前文でいう。核武装に狂奔する北朝鮮を信頼できるのか。年々軍事予算を増大する中国を信頼していいのか。日米同盟はその信頼に変わる具体的な保障であることを国民は忘れている。とりわけ民主党にその感が強い。
 日本の首席全権は西園寺公望であった。随員は牧野伸顕、珍田捨巳大使ほか松岡洋右、近衛文麿(西園寺全権の秘書)らもいた。会議の席上日本全権団が無口で何も発言しないので「サイレント・パートナー」という称号をつけられた。日本側が何もしなかったわけではない。連盟規約に「人種平等の原則」を織り込むように提案している。もっともこの原則は否決される。松岡洋右はアメリカの新聞記者に「山東問題が日本の主張通りに片付かなければ日本全権は明日でも引き上げだ」とリークまがいのことをしている。イギリスの随員ケインズは20億ポンドの賠償能力のないドイツに240億ポンドの過重な賠償を課することは、全ヨーロッパの文明的生活の衰退をもたらすと説いた。近衛文麿は「英米本位の平和を排す」という論文で言う(大正7年11月3日に執筆・評論誌「日本及び日本人」に発表)。要約すると、英米の平和主義は現状維持を便利とする事なかれ主義である。正義人道とは関係がないのに、宣言の美辞に酔うて平和即人道と心得ている。ドイツと同じく現状打破を叫ぶ日本が英米本位の平和主義にかぶれ国際連盟を天来の副音のように渇仰する態度は、卑屈千万で人道よりみて蛇喝すべきものであるというのである。近衛文麿にとって正義人道の方が平和より大切な時がある。その時には現状打破のためにあえて正義人道のために剣を取ってたたねばならないという(三輪公忠著「松岡洋右」・中公新書)。時に近衛文麿26歳であった。日本が敗戦を迎え、戦犯に問われて近衛文麿が服毒自殺を遂げるのは27年後である。