2009年(平成21年)4月20日号

No.429

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安全地帯(246)

信濃 太郎

宮澤賢治と星と銀河鉄道(大正精神史)

 宮澤賢治には「星めぐりの歌」がある。大正7年8月に作られた童話「双子の星」の中の歌である。時に賢治は22歳である。現代の少年少女は星空が大好きである。星空に果てしない夢を見る。
 「あかいめだまの さそり
  ひろげた鷲の つばさ
  あおいめだまの こいぬ
  ひかりのへびの とぐろ
  オリオンは高く うたひ
  つゆとしもとを おとす」
 賢治の詩作は15歳から始まる(明治44年)。童話は小学校3年生(明治36年)の担任八木英三先生の童話風の話に影響されたといわれる。詩集「春と修羅」は生前、刊行された唯一のもので、大正13年4月、花巻農学校教師時代である。28歳であった。
 童話は「雪渡り」(大正10年12月、大正11年1月、月刊雑誌「愛国婦人」)。「やまなし」と「氷河鼠の毛皮」(いずれも大正12年4月「岩手毎日新聞」)。「シグナルとシグナレス」(大正12年6月同新聞)。「注文の多い料理店」(単行本として大正13年12月発行)。所載作品には「どんぐりと山猫」「狼森と笟森盗森」「注文の多い料理店」「烏の北七星」「水仙月の四日」「山男の四月」「かしわばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」「鹿踊のはじまり」などがある。「オッペルと象」(大正15年1月雑誌「月曜」)「ざしき童子のはなし」(大正15年2月同じ雑誌)「猫の事務所」(大正15年3月同じ雑誌)など大正時代に16篇の童話が世に出ている。この時代が最も創作意欲が旺盛であったように思われる。
 こんな話がある。中国の詩人黄瀛さん(母親は日本人)は大正14年、新潮社の詩の雑誌「日本詩人」(2月号)で「朝の展望」で一席に選ばれて一躍詩壇から注目された人である。母親の勧めで陸軍士官学校の留学生となって軍人の道を進む。北海道へ卒業旅行の帰り花巻の宮澤賢治を訪ねている。黄さんは早くから賢治の詩才を認めていたからである。その時は詩の話より宗教の話が多かったという。この時すでに賢治は国柱会に入会、熱心な日蓮宗信者だった。
 宮澤賢治を有名にしたのは「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩である。昭和9年9月21日「岩手日報」の夕刊が「宮澤賢治追悼号」でこの詩を発表した。翌年1月日本少国民文庫の「人類に尽くした人々」(山本有三編)に収録された(宮下隆二著「イーハトーブと石原莞爾」・PHP研究所)。作品自体は遺品の手帳に書き留められていた。この詩について谷川徹三さんは「径典や叙事詩の修辞法を取っているので、その発想が近代個人主義を超えているように、その措辞も近代個人主義を超えている」と評する(宮澤賢治詩集・山本太郎編・旺文社文庫)。この時「対偶法の多用を宮澤賢治の詩精神の衰弱」と見た人もいる。戦後宮澤賢治の詩をめぐる論争が起きる。
 宗教的環境を宮澤賢治の年譜で見ると、10歳の時(明治39年)父に連れられて花巻仏教会が催した暁烏敏の講話を聴く。中学4年生、17歳の時(大正2年)4月、寄宿舎より盛岡市北山の清養院(曹洞宗)にうつる。8月、北山の願教寺(浄土真宗)で島地大等の法話を聞いて感動。9月、北山の報恩寺(曹洞宗)住職尾崎文英のもとに参禅する。「幼児からの宗教の傾斜がますます深められる」とある。18歳の時島地大等編の「緩和対象 妙法蓮華経」を読み感動する。19歳の時2月半ばから3月末まで盛岡高等農林学校受験のため北山の教淨寺(時宗)に下宿。23歳の時(大正8年)夏、経文、および日蓮上人遺文より抜きがきした「摂折御文 僧俗御判」を編んだ。大正9年11月、日蓮主義の信仰団体で田中智学の主宰する国柱会に入会、布教活動をする。翌年1月父母の改宗を熱望したが、聞き入れられなかった。上京して国柱会を訪れる。出版社に勤めながら昼休みに街頭布教をする。2月、国柱会の高知尾智耀のすすめで文芸による大乗仏教の普及を決意し創作に熱中する。
 宮澤賢治の宗教心・信仰の深さに注目したのは前掲の著者、宮下隆二である。宮澤の遺品・手帳の最初のページに「当知是処(まさに知るべし、この処は)即是道場(すなわちこれ道場にして)諸仏於此(諸仏はここにおいて)得三菩提(三菩提を得)」宮下は次のように解釈する。「この手帳を常に持ち歩くことで、賢治にとって、日常生活のすべてが修行の場となり、宗教生活の場となったのである」さらには「雨ニモマケズ」の意味は「修行者の自戒のための覚書ということになろう」とまで言う。とすれば詩の優劣もさることながらその信仰心の深さこそ問われることになる。
 私はその萌芽を「春と修羅」第一集の序にみる。「有機交流電灯」「因果交流電灯」さらに序の最後の3行「すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として第四次延長の中で主張されます」などの表現に「科学」を「宗教」にきわめて近いものと認識していたと思われる。科学者のなかには科学の神髄に迫ればせまるほどグレート・サムシングを感じる人々が少なくない。さらに「銀河鉄道の夜」に結実する。車掌が検札にきたあと、鳥捕りがジョバンニの車掌に出した紙切れを見て云う。「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どころじゃない、どこでもかってにあるけるつうこうけんです。こいつをおもちになりゃ、なるほど、こんなふかんぜんな幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまでもゆけるはずでさあ。あなたはたはたいしたもんですね」(宮澤賢治作谷川徹三編「童話集・銀河鉄道の夜」他14編・岩波文庫)
 「天上に行ける切符」、だれもが手に入れることができるものではない。その先には「イーハトーヴォ」があるのか。ここに宮下隆二は賢治の思い「ほんとうのさいわい」を見出すのである。