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月刊雑誌「Will」(新年特大号)に羽佐間正雄さんの「志村正順アナ(平成19年12月1日死去、享年94歳)、生前最後のインタビュー」記事が掲載されている。その中に昭和18年10月21日(木曜日)明治神宮外苑陸上競技場で行われた出陣学徒壮行会の実況秘話が語られている。はじめ実況は先輩の和田信賢アナがやるはずであったが、和田アナが「志村、お前やれ」ということでたった一枚の式次第だけで即興でやったという。名調子であった。新聞記者も時間に迫られて事件現場から原稿を電話で吹き込むことがある。とぎれとぎれでうまくはいかない。ラジオ放送では立板に水を流すようにやらねばならない。志村アナはそれを見事にやってのけた。「往く学徒、東京帝国大学以下77校。これを送る96校,実に5万名、いま、大東亜決戦にあたり、近く入隊すべき学徒の尽忠に至誠を傾け、その決意を高揚するとともに、武運長久を祈願する出陣学徒壮行会は、秋深し神宮外苑競技場において、雄々しくも、そしてまた猛くも展開されており」放送すること2時間半「かくして学徒部隊は往く。さらば往け、往きて敵米英を撃て、往き往きて勝利の日まで大勝をめざし戦い抜けと念じ、ここに中継を終わりたいと思います」そばにいた和田さんがぽつりと言った。「最後に壮士ひとたび去ってまた還らず、といってほしかった」。文章の結びが大事であるように放送にも結びが大切であるのを初めて知った。志村さんは名アナウンサーの秘訣は「死ぬほど本を読むこと。そうすれば語彙が自然に身につく」といっている。新聞記者もまったく同じである。私は昭和18年10月21日、埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校に在学中であった。翌22日から29日まで千葉県の習志野で行われる野営演習の軍装検査に忙しかった。予科入校初めての野営演習であった。この日の新聞夕刊には出陣学徒壮行会が「壮んなるかな 首途 米英撃つ 雄叫び 外苑ゆるがす歴史的壮行会」と4段抜きの見出しで報じられていた。
私の手元に毎日新聞から出した別冊1億人の昭和史「日本ニュース映画史」がある。その中の「日本ニュース」第177号(昭和18年10月27日)に「学徒出陣」の7枚の写真とともに「決戦」の見出しのもとに米空母「ホーネット」艦上から写した写真19枚がある。これについて当時日映の製作部長であった土屋斉さんの談話が載っている。「ジャーナリストとして何とか真実を伝えたい。しかし干渉は過酷である。そうした中で私の最も印象に残っとるのが日本ニュース177号である。この年戦利品の中に、アメリカ側が撮影した空母ホーネットが日本海軍機の攻撃を受けている写真がありました。私はオリジナルを見たですがね。ものすごい弾幕、その中を突入する海軍機が火達磨になるシーンもあったんですがこうした場合は検閲で当然カットにされました、わたしはこのフイルムを効果的に使いたいと思いました。(中略)そこへ学徒出陣壮行会ですわ。学生のなかには将来のゲーテもアイシュタインもおるわけでしょう。そうした若者を根こそぎにして戦場へ送る。そしてその戦場は―というので学徒出陣とホーネットの写真をぶつけて1巻・177号にまとめたんです。学徒出陣という誠に悲愴極まる現実、それとアメリカの物量作戦、もはや精神論では通じやしないんだということを知ってもらいたい。それが私の本意だったんです」。そうだったのかと今にして思う。毎日新聞が「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ海洋航空機だ」と報道し東条英機首相に激怒されたのは昭和19年2月23日だからそれよりも4ヶ月も前の特筆すべき出来事である。
この「日本ニュース映画史」を編集発行した奥村芳太郎さん(毎日新聞出版局)はその著「学徒兵の青春」でこう述べている。『この有名なシーンが感動を呼び。今も記憶に残されているもうひとつの理由は、あえて米空母「ホーネット」の激しい戦闘の実写場面をぶつけて、出陣する学徒たちがいずれ直面しなければならない「死の世界」を同時に映し出されているからであるこの「日本ニュース」177号のすぐれた思想的な構成が当時、意図的に製作・編集されたことは重要だと思う』。まことにジャーナリスト精神はすごいと思う。忘れてはなるまい。
(柳 路夫) |
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