2008年(平成20年)3月1日号

No.388

銀座一丁目新聞

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安全地帯(207)

信濃 太郎

記憶にとどめよう。戦争のこと

 毎日新聞のカメラマンであった江成常夫さんが自分の住む相模原市の市民ギャラリーで写真展「偽満州国・鬼哭の島」を開いた(2月7日から2月19日)。少年時代を満州(ハルピン・大連)で育ち、戦争中軍の学校に学んだ私としては暗く、重い気持ちでさまざなことを思い出しながら拝見した。
 ハルピンの写真は柳町の朝鮮人遊郭(現・共同住宅)、田地街の日本人アパート(現共同住宅)、ハルピン刑務所跡があった。暗い写真ばかりであった。私はこの街に昭和8年4月から昭和14年3月まで6年間いた。異国情緒豊かな町であった。冬、白系ロシア人の老夫婦がシューバーを着て腕を組んで雪の道を散歩する姿がよく見たものである。ハルピン生まれの女流詩人、エレーナ・ニコバッゼは詠う。
 たなびく丘をみぐらせる
 満州の草原の町よ
 いくつの細路を歩き回りしか
 あのポプラの側を通りて
 まなこに眩しき町
 遠き中国にあり
 今世界に散らばりし者しばし夢に見る
 (「スンガリーのほとりの町」ビクトル・ペトロフ・伊藤清久訳。「東京ハルピン会報」第48号より)
 大連の写真は満鉄住宅(現・大連鉄路局員住宅)、若狭町・日本人住宅(現・一般住宅)、南山麓の日本人住宅(現・一般住宅)、東本願寺本堂(現・大連京劇団倉庫)などがあった。大連では4年間寄宿舎生活であった。昭和18年4月陸軍士官学校に入校したので敗戦時の大連の混乱を知らない。同級生たちで作った会報誌「となかい」を見ると友人たちは皆艱難欠乏に耐え、あるいわ生死の間をさ迷った体験をしている。埠頭の荷役の仕事を引き受けもっぱら高粱・アワ・トウモロコシなどをひそかに持ち出し一家の飢えをしのいだ者もおれば、父が経営する工場の付属農園の警備に行くはずであったがむしろ工場が危ないというので取りやめたところ農園が暴徒に襲われ管理人が殺害され中学生の息子さんが重傷を負い、間一髪で命拾いした者もいる。
 私は満州を懐かしく思うがそれだけではない。隣人たちの数多くの「故なき死」を忘れず、私の10台を育ててくれた満州の大地を心の中でいつくしみつつ中国とは「不戦の誓い」をしたいと願う。
 「鬼哭の島」の写真は胸に迫るものがある。日本軍が玉砕したサイパン・テニアンを取り上げる。写真は「米軍が最初に上陸したススペ海岸」「ススペビーチに残る米軍水陸両用戦車」など18枚ある。米軍がサイパンに上陸したのは昭和19年6月18日午前8時44分である。兵力は合計6万7451人、艦艇535隻。日本軍は陸軍部隊3万1443人、海軍部隊6160人。
 要衝タッポーチョ山の戦いなど日本軍は各地で善戦したが米軍の圧倒的物量作戦の前に敗退を余儀なくされ戦うこと24日間、7月6日に第43師団長斎藤義次中将(陸士24期)7月8日に中部太平洋艦隊司令長官、南雲忠一中将(海兵36期)がそれぞれ自決。残存の3千の日本軍も最後の万歳突撃をして玉砕した。多数の婦女子を含む約4千人在留邦人がマッピ岬の断崖(バンザイ・クリフ)から飛び降り自決をしたのは7月9日であった。
 第43師団には歩兵118連隊(静岡)、歩兵135連隊(名古屋)、歩兵136連隊(岐阜)が配属していたがそれぞれの軍旗を奉焼して玉砕した。歩兵135連隊には私より1年先輩の58期の歩兵科の士官候補生10名と陸軍経理学校の士官候補生4名が隊付き中であった。隊付きは1週間ほどの休暇を経て5月1日、座間の本科へ行くはずであった。昭和19年4月7日、師団にサイパンに派遣の動員がかかった。出動の準備に忙殺され士官候補生に構う余裕がなくなリ、教官の連隊旗手、豊島千代司少尉(55期)は連隊が戦場に赴くことになった現在、休暇は取りやめ、候補生たちは4月末まで連隊と行動を共にして4月30日名古屋から本科へ直行させるときめたしまった。おさまらないのが14名の候補生たち、他の部隊へ隊付きの同期生は休暇をもらって帰郷している。衆議一決4月27日午前0時を期して「放馬」を決定、実行に移した。本科に来た5月半ば、名古屋の補充隊の望月仁美中尉(55期)から連隊旗が同封された手紙が来た。それには「連隊は5月8日名古屋駅を出発、横浜港を経由して征途についた(5月19日サイパンに到着)。貴様らは毎日この写真を拝して連隊旗に恥じない士官候補生になるよう研鑚に励め、豊島少尉がおれの気持ちがわかってもらえなかったと泣いて悔しがっていた」とあった。当の豊島少尉はサイパンで戦死を遂げた。別れてから3ヶ月足らずで隊付きの部隊があっという間に消えてしまった。それが自分たちの運命の暗示でもあった。135連隊隊付き士官候補生たちの「放馬」の後ろめたさは戦後も残り、それがバネとなり、「烈日サイパン島」の長期新聞連載となって実現、慰霊祭へ発展した。それが生き残った者の使命でもある。
 写真展に寄せて江成常夫さんは「歴史に学ぶことが『鬼哭』に対する弔う心と人間相互の光明につながる、と考えます」と結ぶ。

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