2007年(平成19年)11月10日号

No.377

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花ある風景(292)

並木 徹

河上民雄さんの「勝者と敗者の近現代史」

 学者の河上民雄さんから近著「勝者と敗者の近現代史」(かまくら春秋社)をいただいた。昨年の春、マスコミ、出版社の連中で作る「きりたんぽの会」でたまたま隣り合わせに座ったご縁である。父丈太郎さんは日本社会党の委員長。その秘書を務められたこともある。謹厳実直な方との印象を受けた。
 本書のねらいは1945年を体験した日本人が「再び愚かな祖先とならないために」は今後どういう選択肢を取るかを読者に問うところにある。「再び愚かな祖先とならないために」の表現は張俊河の自伝「石枕」にある。張さんは日本の神学校の学生の時、学徒出陣に応じ、中国に出征、1944年に軍隊を脱走、重慶にあった大韓民国臨時政府の抗日軍に参加、の本の敗戦で故国に帰国する。朴正煕の軍事政権時代民主派の中心人物であった。
 歴史は常に勝者側から書かれる。勝者の意思が強く反映される。だが敗者の遂げざる思いもある。その思いには貴重なものもはるはずである。
 徳川慶喜には近代日本の国家構想があったという。幕府が滅びたのは保守のためではなく進取のためだったと説く人もいるほどである。32歳の将軍慶喜は西周を招いて近代国家構想「議題草案」を作らせる。そこには天皇が頂点に立ち、立法府(議政院)に上院と下院に分かれるなどとある。これは坂本竜馬の有名な「船中八策」と基調を同じくする。
 勝海舟が日清戦争に反対したとは知らなかった。首相の伊藤博文に漢詩を届け「日清戦争を大義名分のない戦争でロシアとイギリスを利するだけと批判した。「氷川清話」には「一回勝ったぐらいでうのぼれるな」「日本が逆運に会うのも相当遠くはない」と警告した。時に1895年。50年後日本は敗戦の憂き目を見た。福沢諭吉は「福翁自伝」では日清戦争の勝利に涙をなして喜んでいる。勝海舟と福沢諭吉は足尾銅山鉱毒事件でも対照的な態度を見せる。福沢諭吉は、鉱毒事件は科学的根拠のない限り、被害のゆえに操業停滞は許されないとした。勝海舟は人民を苦しめて何が文明だ、と語り、実際の状況を自らの足で調査し結論として、操業停止しか解決策はないとした、これは戦後起きた公害事件と酷似する。
 伊藤博文をハルピン駅で暗殺(明治42年10月26日)した安重根が挙げた15の暗殺の理由の最後に「孝明天皇の殺害」がある。歴史は様々に重なり合っているという思いがする。平民宰相と言われた原敬がナ ンバースクールのほか静岡高校、水戸高校、浦和高校など地名の付く高等学校を作ったのは先見の明がある。原平民宰相が誕生したのが「米騒動」であったというのは興味深い。原は時代が変わってゆくのを知っていた。これからはイギリスではなくアメリカ時代と見抜いて「日米協調路線」でなくてはならぬと固く信じて、総理大臣になった時、実行していく。その原が19歳の男に刺殺されたのは残念な出来事であった(大正10年11月4日)。原敬、66歳であった。歴史は時に無情である。
 東京駅に駆け付けた夫人あさ子は「生ける原は総理大臣だが死せる原は妻のものです」と芝の自宅に遺体を運ばせた。警視庁史(大正編)には遺体を収めた棺を運ぶ大八車の写真がある。右端に夫人らしい女性が写っている。
 「近衛文麿と石橋湛山」、「石原莞爾と岸信介」、「マッカーサー元帥と昭和天皇」と興味が尽きない。著者の歴史への眼は的確である。「総じて、占領下の民主化改革は占領者のイニシアチブではうまくいかず、日本側の改革の意欲が事前に存在し、両者が歴史的に遭遇した場合にのみ成功、定着している。その意味では大正デモクラシー、特に昭和初期の無産運動が培った改革の土壌が戦時の雌伏の時を経て、戦後の民主化改革の受け皿となったといえる」の指摘は正しい。最後に著者は言う。「歴史を解く鍵は国家、民族、階級ではなく、文明」と主張したトインビーの「歴史の研究」をもう一度ひもとかねばならないのかもしれない」。

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