毎日新聞の「近聞遠見」に岩見隆夫記者が神奈川県大磯町の旧吉田邸にふれてこりんさんのことを書いている(5月13日)。こりんさんは本名が坂本喜代子さんで、吉田茂元首相が夫人雪子さんをなくした後、死ぬまで身の回りの世話をした人である。3年前の2月、99歳でなくなった。岩見記者を乗せたタクシーの運転手は「きりっとした方でした。無口でしたがね」と語っている。私がこりんさんと会ったのは、もう50年も以上も前の昭和2
7年夏ごろであったと記憶する。会ったというより強引に外出する彼女の写真をとっただけである。こりんさんは当時49歳であったが私にはもっと若く、優雅でおとなしそうな女性に見えた。社会部のデスクに「大磯へいってこりんさんの写真をとって来い」と指示された。吉田首相は平和条約交渉のためワシントンへ外遊中であった。デスクの狙いは大役を果たしている吉田首相を案じ、その帰りを待ちわびるる女性を写真で報道したかったのであろう。別に質問はしなかった。カメラマンを連れた大磯に出かけた。相手が嫌がる写真をとるわけだから愉快な仕事ではない。社会部記者は「牛のよだれの如く粘れ」と教えられた。吉田邸に張り込みこと3日目でカメラにその姿をおさめることが出来た。後味の悪い感じが暫く残った。もちろん記事になった。
竹久みち著「ふりむかない私」(講談社)に礼儀正しいフリーのカメラマンの話が出てくる。その人は竹久さんが三越事件で捕まり、拘置所からでてきて以来、自宅の前に張り込んだ。毎朝決まった時間に来て、玄関のベルを押して、インターフォンで「おはようございます」と挨拶し、昼間は車の中で過ごす。夕方決まった時間に「帰ります」と挨拶する。家の前の道路が汚れていると掃除し、家のものが外に出れば挨拶を欠かさない。近所の人に聞いて竹久さんが薔薇が好きだと知れば薔薇の花を送り、カステラが好きだと判られバカステラを送る。彼は「いい仕事をしようと思えばこれぐらいの気配りは当たり前です」といい、「僕はその場限りの仕事をしたくない。苦労してもいい写真をとりたいのです」といった。事件以後竹久さんの写真を真正面から好きなように撮ったのは彼であった。
新聞には締切時間があるにしても「その場限りの仕事」は後味の悪いものである。ひそかにこりんさんに手を合わせる。
(柳 路夫) |