2005年(平成17年)8月1日号

No.295

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安全地帯(117)

信濃 太郎

 大塚京子の「ヒロシマレクイエム」

 大塚京子。ジャズダンス「ヒロシマレクイエム」の創作で日本の演劇史に名を刻むであろう。女優として劇団「文学座」の「十三夜」公演で主役のおせきを演じ(1064年)、黒澤明監督の「赤ひげ」(1965年)、東宝の「風とともに去りぬ」(1066年)にもそれぞれ出演した。呉服商片岡屋三代目、大塚良一との結婚で演劇活動を止める(1966年)。
 長男英一(1967年生まれ)が通う幼稚園でまんが家,はらたいら夫人原千鶴子と知り合いとなり、ともにバレエスタジオへ通う。京子はさらにそのスタジオを借りてレッスン場としていた「ブロードウエイダンスセンター」に移り、ダンスに夢中になる。ポイントで見せる京子の豊かな表現力をブロードウエイから来ているダンサーや振付師が賞賛する。それが東京・文京区小石川・自宅地下室でプロのダンサーを育て生み出す「プロフェョショナルダンスセンター」の誕生となる(1984年)。やがて優秀なダンサーが育つ。平野景子(東京理科大卒・ニューヨークでダンスを修業)、伊野木英子(上智大学・高校時代からダンスをやる。フイラディアに滞在していた父のもとでもダンスを夢中で踊る.主役のテラ役を演じる)、工藤美也子など。広島をテーマにしたダンスをと考えるのは自然な成り行きであろう。それにしても難しい。歌もなければセリフもない。バックミュージュックと踊りだけで表現せざるを得ない。ここで俳優座養成所8期生、劇団文学座一期生、女優。ダンスステージ4作品出演(1985年から1987年)の経験がものをいう。振り付けはアレックス・マグノと並木淑枝。マグノのダンサーの力感をフル稼働させる群舞の後には並木の観る者の心に食い入る静謐と鎮魂が相応しいと考える。演出は出口典雄。シェイクスピア戯曲全7作品を全て演出.上演している。英一を出口に預けて俳優の道に歩ませた(のち家業を継ぐ)ほど京子は尊敬していた。群舞のあとの灯篭流しのシーンを出口は3分と決める。旋律とパーフォーマンスが微妙にフィットするのが3分間である。場面がだらけない間である。京子はダンサー達に広島の久地の国民学校2年生の時の黒い雨の体験談をする。被爆を共感して欲しかった。それが踊りにでると信じた。
 「ヒロシマレクイエム」は1995年8月6日にはじまる。京子の自宅のスタジオ公演であった。仮設した五十席は中盤から終盤にかけて収容しきれなくなった。その後「ヒロシマレクイエム」は広島市、大竹市などでホール公演を果たす。2000年11月の大竹市での公演の前、京子は肺癌と医師から宣告される。2003年5月にジャズダンス・ステージ「生きる」(「ヒロシマ三部作〕の第二作)が前年の東京に引き続いて広島で公演される。これはダンスで描く京子の自伝である。長谷川六は「演劇とダンスが融合した成功作」と激賞する。第三作「夏の雨」は昨年8月PDCスタジオで発表された。 京子の肺癌は一時は消えて奇跡的といわれたがまもなく脳への転移が見つかる。大橋弘著「ヒロシマレクイエム」―大塚京子「夢」と「生」のダンス―(風媒社刊)によると、大塚京子は最後に自らステージに上ってこう語りかけるはずだ。「六十年前、原爆とともに黒い雨が降りました/夏の暑い雨でした・・・・」と生の喜びを歌い上げるとある。

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