戦後の名宰相といわれる吉田茂が書いた「回想10年」(新潮社・全4巻・昭和32年7月発行)を読み返す。47年前に読んだ本である。殆ど忘れている。含蓄のある言葉や事柄がいっぱいある。
欧米視察の旅先のニューヨークで国際外交舞台で活躍したエドワード・ハウス大佐に会う。大佐は義父の牧野伸顕伯と懇意の間柄であった。開口一番「ディプロマチック・センス(外交的感覚)のない国民は、必ず凋落する」と大佐はいい、事例を挙げて説明した。欧州大戦の直前、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世に当時のドイツの主戦的傾向に対して平和論を忠言、無謀な戦争に入るような事がなければ世界第一流の強国として存在し、繁栄を続けるであろう。もし戦争をはじめるようなことになれば、独仏間の戦争にとどまらず世界戦争になるであろう。そうなれば折角これまで築き上げてきた
ドイツ興国の大業を根底から覆すことにならぬとも限らないと述べた。さらに「今日の日本に対してもドイツと同じ忠言をしたい」と付け加えたという。この話は吉田さんが待命中の昭和7年から8年にかけての話である。帰国後、吉田さんはハウス大佐の言葉を広く伝えたが、大佐の忠言は日本では聞き入れなかった。不幸にもそれから8年後に日本は太平洋戦争に入る。
外交的感覚。日本は余にも平和ボケをして、この感覚は極めて鈍い。義理と人情で動く世界でない。お金で平和は買えない。いたずらにお金で援助すればよいというものでもない。汗を流してこそ国際信用と国際正義が得られる。日米同盟と日英親善は戦後日本外交の基調である。イラク問題でも北朝鮮問題でもこの外交の基調をはずしてはなるまい。
吉田さんの娘、麻生和子さんがこんなエピソードを披露している(同書第4巻)。日本でメニューヒンのヴァイオリン演奏会が開かれた時である(昭和26年秋)。吉田さんはメニューヒンはロンドンでもきいたことがある。ロンドンで聞いた時の方がよかったと思った。それよりも伴奏のアドルフ・バラーのピアノに感心した。感想を聞かれた吉田さんは吉田一流の皮肉まじりにシャレて「メニューヒンのピアノはよかったよ」と答えたところしばらくは新聞、雑誌のゴシップ欄の材料にされ、高名な音楽評論家まで「このような音楽鑑賞力しか持たない総理大臣の
下では、日本はとても文化国家になれない」とい非難まで現れたという。今の新聞記者も評論家もその人の人柄、教養、センス、発言の真意を知らず、表面の出来事を自分の浅はかな知識だけで書くようになっている。小学生に教えるように説明しないとわからない輩が増えた。
吉田茂さんが懐かしい。その吉田さんは昭和42年10月20日89歳でこの世を去った。
(柳 路夫) |