2003年(平成15年)7月10日号

No.221

銀座一丁目新聞

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追悼録(136)

栗林忠道大将は名将である

  戦争は文化だという。大東亜戦争は日米の文化の差で日本が負けたということになる。早稲田大学の留守晴夫教授は日本文化の弱点は主観的な性格にあると指摘する。日本の陸軍は物事を主観的に見がちであった。あまりにも敵を知らなすぎた。日本の陸軍にも知米派はいた。それが生かされなかった。清沢洌著「暗黒日記」にも次のような記述がある。昭和18年5月2日 「敵国は日本の事情に通ずる者を重要視ししている。たとえば、グルーを使い、前駐日参事官ドーマンを駐ソ公使に任命(17・12.22)した如きだ。日本はそうしたものを遠ざけるのだ」 同年7月14日 「物を知らぬ者が,物を知っているものを嘲笑,軽視するところに必ず誤算起こる。大東亞戦争前に、その辺の専門家は相談されなかったのみでなく一切口を閉じしめられた」 兵法家、孫子も教えた。「敵を知り己を知るもの百戦あやふからず」。大東亞戦争は負けるべくして負けたといえる。
 陸軍では知米派を要職から排除した。岡本連一郎中将(陸士9期・陸大恩賜)は在職中殆ど英米大使館付武官で、有能な武人であった。それなのに、中央には関係が薄かった。近衛師団長を最後に予備役に編入された(昭和5年12月)。硫黄島で戦死した栗林忠道中将(陸士26期・陸大恩賜・戦死後大将)も米国、カナダで駐在武官をしたが、陸軍省馬政課長ぐらいで中央の要職に就かなかった。また軍の要職を占めた陸大卒の幼年学校出身者の専攻語学は独、仏、露が主であった。
 アメリカは今回のイラク戦争で前線基地の名称を「キャンプ・硫黄島」を使ったり、ブッシュ大統領の演説の中で「ノルマンジー戦や硫黄島戦では…」といった使い方をしている。アメリカ人にとって戦後58年たっても第二次大戦の硫黄島の戦いは忘れることの出来ないものなのだ。留守教授が300人の学生に「硫黄島戦を知っている者は…」と聞いたところ誰も知らなかった。「栗林忠道の名前は山本五十六と同じぐらい知名度があってもいいはずだが・・」と留守教授はいう。日本の歴史教育はいびつである。
 栗林中将は昭和19年5月27日付けで第百九師団長に親補された。守備範囲は小笠原諸島の父島、母島、硫黄島、南鳥島であった。司令部は父島に置く事が提案されたが、栗林中将は「最良の飛行場を持つ最重要な戦略拠点」硫黄島に司令部を置いた。「指揮官は戦場の焦点に位置すべきであり、後方に安閑の地を求める事は許されない」とした。島を大地下要塞にして敵を迎えることにした。知米派は日本陸軍が生んだ最も果敢な指揮官の一人でもあった(児島襄著「指揮官」上)。「5日で落とす」という攻略部隊指揮官、H・スミス海兵中将の目算は外れ、占領するまでに1ヶ月有余もかかった。しかも島嶼作戦では日本軍よりも多い被害を出した唯一の戦いとなった。
栗林中将が残した戦訓次の通りであった。
 本島防衛に当たり致命的打撃を蒙りしは、海空よりの攻撃にして拳大の本島(広さ約20平方キロ)に対して戦艦2、重巡5、軽巡10,駆逐艦約40,計約60隻,400余門をもってする砲撃のいかに熾烈なるかは想像に余りあり。ことに観測機の機敏的確なる誘導により、要部、要点に猛射を加え、夜間におよぶもこれを継続せるは甚だしく苦痛とせしところなり。今日までの発射弾数は約30万発と推定せられ水際陣地、主陣地をはじめ陣地施設は主としてこれにより壊滅す。
 敵の制空権は絶対かつ徹底的にして一日延べ1600機に達セしことあり。未明より薄暮まで実に一瞬の隙もなく230ないし00余りの戦闘機在空し、執拗なる機銃掃射か爆撃を加え、わが昼間戦闘行動を封殺するのみならず敵はその援護のもとに不死身に近き戦車を骨幹とし、配備の手薄なる点に傍若無人に浸透し来り,われをして殆ど対策なからしめ、かくしてわが火砲、重火器ことごとく破壊せられ、小銃および手榴弾をもって絶対有利なる物量を相手に逐次困難なる戦闘を交えざるを得ざる状況となれリ。以上これまでの戦訓等にては到底想像も及ばざる戦闘の生地獄的なるを以って、泣き言と思はるるも顧みずあえて報告す。
 栗林中将の戦訓は「鉄量を破るものは突撃ではない。敵に勝る鉄量だけである」という大本営情報参謀の堀栄三少佐(陸士46期)の結論と全く同じであった。

(柳 路夫)

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