2001年(平成13年)7月20日号

No.150

銀座一丁目新聞

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花ある風景(64)

 並木 徹

 旭化成会長の山口 信夫さんが7月24日、日本商工会議所の会頭に就任する。なんとなく、嬉しい。陸士は一年先輩の58期で、兵科は同じ歩兵である。59期とは振武台(埼玉・朝霞)で予科卒業(昭和19年12月)までの8ヶ月、兵舎をともにし、合同棒倒し、軍歌演習などをした。演習の際、背嚢に石を詰めて己を鍛えている先輩がいるのも知った。相武台(神奈川・座間)では、北、南と兵舎をことにしたが、7ヶ月間、大東亜戦争の末期、「死を覚悟」して練武に汗を流した。
 山口さんは昭和20年6月17日、地上兵科1146人のトップで卒業。歩兵77連隊の原隊のある朝鮮・平壌に赴いて間もなく、敗戦、ソ連に抑留され3年間の捕虜生活をよぎなくされる。
 引き揚げ後、一橋大学(当時東京商科大)で学んだあと、旭化成に入社する。
 遅れ入社であったが、目立った。宮崎輝社長が「陸士トップならオレの秘書がやれるであろう」と山口さんを14年間、秘書室長、総務部長でこき使った。
 陸士トップで思い出した。毎日新聞の西部代表時代、同期生の勝野高成君の頼みで、福岡で講演をした。このとき、勝野君の紹介がふるっている。「陸士の歩兵科で私がトップで、この男が二番でした」。59期の歩兵は529人であった。卒業は昭和20年10月10日の予定であったが、敗戦で卒業出来なかったから、予科時代の成績はともかく、本科の時の成績はわからないはずである。勝野君は商才があり、機敏で度胸もあり、西日本ビル社長として業績を上げた。いまは甘木のシルバーの街づくりに努力している。歩兵科のトップと自称してもおかしくない働き振りである。
 山口さんはその後、住宅事業の全責任をまかされ、僅か10数年で旭化成最大の収益源に成長させた。宮崎さんは山口さんを「バランス感覚があって、人使いがうまい。なにかまとめていくにはピカ一だ」といっていた(大野誠治著「宮崎輝の遺言」にっかん書房刊)。とすれば、全国526の商工会議所会頭をまとめてゆくには山口さんは最適ということになる。76歳という年齢はまだ若い。ともに歌わん歩兵の歌を・・・
 ああ勇ましき我が兵科/会心(えしん)の友よ来たれいざ/共に語らん百日祭/酒盃に襟の色うつし
 先輩に心からエールを送る。

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