ロッキード事件で有罪が確定した「丸紅」の元専務、伊藤 宏さんが亡くなった(6月10日)。享年74歳であった。
今から25年前の昭和51年2月5日、アメリカの上院外交委員会の多国籍企業小委員会で開いた公聴会で児玉 誉士夫さんとともに最初に名前が出た人である。会えば物腰の柔らかな紳士であると、取材記者はいっていた。ここだけの話だが、公聴会の資料はここのものをコピーさせていただいた。非常に助かった。
丸紅はロッキード会社の代理会社で、L1011機売り込みのため、時の総理、田中角栄に5億円を贈ったのだった。企業戦士は誠実であればあるほど会社のために尽くす。ロ事件は伊藤さんにとって、不運というほかあるまい。
その年の2月10日、論説委員だった私は編集局長に呼び出された。6年余も優雅な論説生活を楽しんでいた時であった。「社会部長になってロ事件を指揮してほしい」という頼みである。編集局長は同期入社でもっとも気心の知れた友人であった。即座に引き受けた。前任の社会部長は早稲田出身だが、東京幼年学校47期で、陸士59期の私より3年後輩であった。私は信条として「行けと指示されたら文句言わずゆき、辞める時は自分で判断する」を心掛けていた。しかも50年か100年にしか起きない疑獄事件である。記者冥利につきる。迷うほうがどうかしている。3月1日に部長に就任した。50歳であった。これまでに50歳台で社会部長になった人はひとりしかいない。 それだけ社会部長は激職だということである。
事件そのものは多彩に発展し、非常に勉強になり、記者として鍛えられた。部員たちも知恵を出し、疲れた体をむちうってがんばった。私も睡眠時間は平均すれば4時間ぐらいであったが、気が立っていて苦にならなかった。造船疑獄事件(昭和29年)の取材の経験を生かして企画をたて、論説委員時代の人脈をいかして、紙面に登場してもらった。張り込み、兵力の動員、状況判断などは作戦要務令に従った。大いに効果をあげ、当時、「毎日新聞を見ておれば、ロ事件の事がよくわかる」といわれたほどであった。
ロ事件は私の運命も狂わした。そのまま論説におれば、大学でマスコミ学でも教えておれたであろうと思う。運命もその人の性格のうちといわれる。甘受するほかあるまい。
伊藤さんの死はいろいろなことを思い出させてくれた。心からご冥福をお祈りしたい。
(柳 路夫) |