毎日新聞で健筆を振るわれた松岡 英夫さんがなくなった(4月8日・享年88歳)。3月に出版された「安政の大獄−井伊直弼と長野主膳」(中公新書)が遺作となった。
松岡さんは政治部長、編集局次長、論説委員などを歴任されたが、どちらかといえば、地味な人柄で、堅実な方だと言う印象が強い。在職中、素晴らしい仕事をされた。大宅 壮一さんがなくなられたあとサンデー毎日の「サンデー時評」を担当(昭和46年)された。大宅さんの「サンデー時評」は評判の読み物であった。そのあとを見事にこなされた。その該博な知識と視点の確かさは読者を十分魅了した。
毎日新聞に連載された「この人と」もインタービュアの資質の高さを示し、相手方の本音を引き出すのに成功された。
松岡さんは歴史家としての顔を持つ。「大久保 一翁−最後の幕臣」(中公新書・1979刊)は名著であった。「安政の大獄」にしても井伊直弼、長野主膳から論じている。時代背景を克明に追いながら二人を客観的にみている。
安政の大獄を時代逆行の暴挙で政治家としては先見の明がなかったといえようと明快に断じている。しかも福井藩の橋本 左内(1834−1859)、長州藩の吉田 松蔭(1830−1859)を処罰したのは井伊大老に時代を見る目と人を見る目がなかったことを証明しているとまで言い切っている。
別の本によると、万延元年(1860)の2月、丁度、櫻田門外の変の一ヶ月前である。井伊大老は講武所の開所式に出席して「今さらにこと国ぶりをたのまめや ここにそなはるもののふの道」と詠んでいる。これをみるかぎり、開国を強行して一見進歩的にみえる井伊大老は、長野主膳に国学を学んだだけに外国嫌いであったようである。
勝海舟にいわせると、開国の国是に決定するのに力のあったのは薩摩の斉彬、土佐の容堂、筑前の黒田、伊予の伊達、まずこれらの諸侯であったという(勝部 真長編「氷川清話 勝海舟自伝」より)。
橋本佐内は勘定奉行の水野忠徳をして「井伊大老が橋本佐内を殺したるの一事、もって徳川氏を滅ぼすに足れり」と言わしめたほどの人物である。橋本は藩主松平慶永の近侍に抜擢され、藩校の学監をしたり、藩政改革に当ったりした有能な士であった。雄藩連合による絶対主義的統一国家の構想を持つ経綸家でもあった。
吉田松蔭は、井伊大老の用人宇津木六之丞が長野主膳にあてた密書の中で「悪謀の働き抜群」といわれた。松蔭の松下村塾から幾多の俊雄が輩出し、明治維新実現の原動力となった。その松蔭と長野主膳の辞世の歌をならべる。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
(安政6年10月27日刑死、30歳)
飛鳥川きのふの淵はけふの瀬とかわるならひを我身にぞ見る
(文久2年年8月27日刑死、48歳)
松岡さんは「安政の大獄」の中でいう。
安政の大獄はやった方にもやられた方にもどっちにも大きな影響があった。やった方には総指揮官の暗殺から幕府倒壊を早めると言う本来の目的とは反対の結果がでている。やった方の長野主膳にも悲惨な運命が待っていた。
(柳 路夫) |