元文相の永井道雄さんがなくなった(3月17日,77歳)。私が毎日新聞の論説委員のころ,永井さんも朝日新聞の論説委員であつった(1970年から4年間)。学者からジャーナリストの転進で話題を呼んだ。先例がないわけではない。1907年(明治40年)4月,夏目漱石が東京帝国大学と第一高等学校の教職を投げ捨てて朝日に入社,文芸を担当、名をあげている。永井さんは朝日で健筆を振るわれた様だが、同社の社会部出身の論説委員からこんな話をきいた。永井さんが朝日にきて驚いたのは、論説委員がテーマを与えらてから2時間足らずのうちに一本の原稿を書き上げること。しかも、それぞれ、担当分野で該博な知識を持っていることだったという。
私自身のことを振り返って見ると、1969年8月、論説委員になり立てのころ、社説を書くのに苦労した。与えられたテーマに対して余り知識がなく、しかも頭のなかで整理されていないからなかなかまとまらなかった。しかし、半年もたてば、守備範囲のテーマごとの新聞切り抜きも出来、関係の本もよみ、専門家の話も聞いておりそれなりの蓄積が出来たので、楽だった.ほぼ一週間一本の割で社説を書いた。今考えると、社会部長になる(1976年3月)までの6年半の論説委員時代が一番充実していた。しかも、耳学問も出来た。当時の論説委員長の高橋武彦さん(取締役東京代表、労務、総務担当,故人)は政治部出身で、政財界に知己が多く,その話が面白かった。その日の会議が終わると,雑談に移る。たとえば、旭化成の宮崎輝社長は自宅が世田谷の松原だが,三軒茶屋で車を降り,一時間半ぐらいかけて歩き,その日のこと明日のことを考えたと言う。また,三木夫人が「総理に必要なのは健康と執念だけですね」と感想を漏らしていたといった興味深い話をしてくれた。永井さんの訃報をきくにつけ、論説時代の思い出が次から次にでてきた。それと共に,新聞は異業種から人材をもっと登用すべきだと思う。(柳 路夫)