2015年(平成27年)1月10日号

No.632

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花ある風景(547)

 

並木 徹

 

詩歌で綴る我が人生 

▼「周太がかって奉仕せし
  儲けの君の畏くも
  生まれ給いし佳きこの日
  逆襲受けて遺憾にも
  将卒、数多失いし
  罪はいかでかのがるべき」(歌・鍵谷徳三郎、曲・安田俊高「橘中佐」・下)

 橘周太中佐(士官生徒9期)は大正天皇の御付武官(明治24年1月から明治28年11月まで)・名古屋幼年学校校長(明治35年少佐進級と同時に校長となり明治37年3月まで)をへて歩兵34連隊第1大隊長となり日露戦争の際,遼陽会戦で戦死された。時に明治37年8月31日であった。大正天皇の誕生日であった。御付武官時代、大正天皇に厳しく水泳の手ほどきをされた。

 歌の文句にある「儲けの君」とは大正天皇のことである。大正天皇とご学友の甘露寺受長さんは橘武官について「いわゆる明治型の豪傑で夜、御用邸を出て途中のやぶの中で袴を脱ぎ捨て沼津の町へ飲むに行くのを見たこともある」と、その著書に記す。壮烈な戦死の報に「兄貴が死んだように悲しくてならなかった」とも書く。私は大正14年8月31日に生まれた。「天長節」の日であった。節男と名付けられた。産婆さんは「この子は毛深いから情け深い人になります。大事に育てなさい」と母に言ったそうだ。

▼「寒いきたかぜ 吹いたとて
  おじけるような子どもじゃないよ
  まんしゅうそだちの わたしたち」(満州国唱歌「わたしたち」)

 少年期をハルピンで6年、大連で4年合計10年、中国で暮らした。軍人であった父の仕事の関係である。大陸の風土は私の人格形成に大きな影響を与えた。「こせこせしない、万事におおらかである。我慢強い性格」となったと自分では思っている。友達となった朝鮮人、中国人はみな優秀であった。私は人類みな兄弟と思い、言葉のギャップはない。その国の50ぐらいの単語を知っておれば何でも事がたせると思っている。

 昭和11年の2・26事件はハルピンで聞く。小学生4年生であった。ハルピン学院の学生は就職試験の面接で「この事件をいかに思うか」と問われて「人を殺すのは許せません。暴力は否定します」と応答、試験官の歓心を克ち得たという(『哈爾濱学院史』より)。
▼「額(ぬか)の真中に弾丸を受けたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや」
▼「いのち断たるおのれは言はずことづては虹より彩にやさしかりにき」(斉藤史)

 斎藤史が2・26事件で処刑された幼友達を歌ったものである。史の父斎藤瀏少将(陸士12期)は2・26事件では取り調べを受けた多くの将官の中で最終的に禁固5年の刑(求刑禁固15年)と有罪となったのは彼一人だけであった。我が子のようにかわいがっていた首謀者の一人栗原安秀中尉(陸士41期)に軍資金千円を頼まれ融通したのが反乱幇助罪に問われた。裁判長は山室宗武(陸士14期)であった。山室中将は練兵の達人、砲兵射撃の神様として知られ人格は高潔であった。私たち59期生の地上兵科が昭和19年10月、陸士本科に入校時の校長であった。山室裁判長は「被告は陸軍少将である。軍人精神に於いて疑われては快くあるまい。自重考慮を望む」と禁固5年の判決を下した。求刑通りならその場で自決を覚悟していた斎藤少将は神妙に判決を受け入れたという。

▼「小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子悲しむ
  緑なすはこべは萌えず
  若草は籍くによしなし
  しろがねの衾の岡辺
  日に溶けて淡雪流る」(歌・島崎藤村、曲・弘田竜太郎)

 陸士本科在学中、昭和20年6月から8月まで「長期演習」という名目で長野県佐久周辺に疎開した。私が寝起きした場所は長野県北佐久郡協和村にあった協和村国民学校であった。朝な夕なに浅間山を仰ぐ。現地自活作業と称して山裾の荒地を開墾、大豆やソバの種をまく。現地戦術も学んだ。昭和20年8月15日、終戦の詔勅は野外演習中の富士演習地で聞く。現在、佐久に残る我々の生きた証は「権現山の記念碑」だけである。ここは本科15中隊、16中隊の歩兵科の士官候補たちが毎朝、皇居と故郷に向かって遥拝したところである。南御牧村の村長であった依田英房翁が「59期生の殉皇の姿を世に伝えることによって日本再建の糧として青少年への教えにしよう」と『遥拝跡』を建立された。ここに我々の手で100本の桜の木が植えられ、毎年4月、59期生の有志がここで碑前祭を開いている。

▼「権現の碑文は錆びて風光る」園部忠
▼「碑前祭インフレ説きし師偲ばる」悠々

 戦後、新聞記者の道を選ぶ。食うためであった。「報道の自由」とか「知る権利」などそんな高尚なことは頭になかった。終戦時「一死大罪を謝す」と自決した阿南惟幾陸相は「勇怯の差は小なりされど責任感の差は大なり」と部下を戒めた。戦後この教えを胸に仕事に励んだ。初めての大事件は「造船疑獄」であった。指揮権が発動されて自由党幹事長が逮捕を免れた。

 指揮権発動の日。検察庁舎は通夜のようであった。建物から「昭和維新の歌」(歌・三上卓)が聞こえたという(山本祐司著「毎日新聞社会部」河出新書)。

▼「権門上に傲れども
  国を憂うる誠なし
  財閥富を誇れども
  社稷を思う心なし」

 このころ若手検事たちには祖国再建のために働く陸士海兵出身者が多かったのであろうか。昭和50年春、『ロッキード事件』が起きた際、社会部長としてこの事件取材の采配を任された。「造船疑獄事件」取材の経験と陸士時代学んだ「作戦要務令」が役に立った。時折「歩兵の歌」(歌・陸士25期加藤明・曲・永井建子)を口ずさんだ。

▼「退く戦術、われ知らず
  見よや歩兵の操典を
  前進々々また前進
  肉弾とどく、ところまで」

 「ロッキード事件」から40年。この国の政治家の「金と政治」の問題は濃淡があるにしてもその構造は一向に変わっていない。

▼「大津波ありし春田に船据る」八牧美喜子

 東日本大震災(2011年3月11日)、死者行方不明2万人を数える。東京電力第一原発の事故は今なお収束つかず、日本の原発利用を含むエネルギー問題に論議を巻き起こす。「自己完結組織」の自衛隊、災害者救援・遺体捜索に大活躍、改めてその存在の意義を国民は今更のように知る。

 同期生で靖国神社に祀れているのは13人。いずれも航空士官学校に進んだ人たちである。昭和25年9月13日最後の全国大会を開いた際、有志で昇殿参拝した。その際、拝殿にて参加者59名で「航空百日祭」(歌・陸士55期梅岡信明・曲・陸士55期家引正矢)を静かに、厳かに合唱した。

▼「望めば遥か縹渺の
  七洋すべて気と呑みて
  悠々寄する雲海の
  涯、玲瓏の芙蓉峰
  ああ八紘に天翔ける
  男子の誇り高きかな」

 梅岡信明は昭和20年7月1日仏印カモ―南方海上で戦死された。家弓正矢は「士気を鼓舞するだけの行進曲調でなく、秘めた闘志と、同期共学の場を去らんとする惜別の情をこめた,そんな感じがいいなと思いながらまとめた」という。大東亜戦争ではこの期は地上兵科で518名、航空で419名の戦死者を出している。今聞いても心に響くものがある。

 昭和23年6月、毎日新聞社会部に一緒に入った同期生10名は3年前に私を残して皆死んだ。最後の一人・高橋久勝君(2011年5月14日死去・享年86歳)は海軍予備学生13期で艦爆乗りの特攻要員であった。

▼「天地はこの世かの世のわが住みか」高橋久勝
▼「秋深し南無阿弥陀仏我一人」悠々

 今年90歳を迎える。机の上には5つの良い遺伝子を阻害する要因を書き込んだ張り紙がある。
1、徒に安定を求める気持ち、
2、つらいことを避けようとする態度、
3、勇気の欠如、
4、成長の意欲の欠如、
5、本能的欲望抑制の欠如。

 毎朝お経のように黙読する。少なくとも「東京オリンッピク開催」まではと念じている。
▼「死も生も神のはからひ月冴ゆる」加藤鈴子
▼「初春やカンパス描く振武台」悠々
▼「初春や絆固めん同期会」悠々