2014年(平成26年)12月10日号

No.629

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追悼録(545)

宮城県釜石・大川小学校の悲劇はなぜ起きたのか

 NHKスペシアャル「悲劇をくり返さない・児童74人犠牲の大川小我が子の命の証に・遺族3年の記録」を見る(11月28日午後10時)。何故74人の児童が犠牲になったのか、この番組は結論を出さなかった。視聴者に判断を任せた形となった。テレビを見る限り市の教育委員会も第三者委員会も犠牲者を出した原因をあきらかにしなかった。むしろ言葉を濁しており、無責任の感さえ与えた。

 明らかではないか。「津波が来たら高台に逃げる」の原則を学校の先生が直ちに実行していたら全員の命が救えた。マグニチュード9.1の地震が起き、津波警報も出された。それをなぜか、校庭に50分も待機していたのか、迫りくる命の恐怖を感じなかったのかと大きな疑問が残る。

 理由として考えられるのは、釜谷地区はこれまでに津波が到達した記録がなく、非常の場合、大川小学校が避難所であった。しかも、山と堤防に遮られていて津波の動向が把握できない環境であったこと等が避難を遅らせたようだ。だが、生き残った子供の一人は子供から「山に逃げよう」と声が出たと証言している。11人(1人助かる)いた先生たちは指示待ちの人間でしかなかったのではないか。状況判断が出来なかったとしか言いようがない。リーダーシップがなかったといわざるを得ない。周囲の状況を見れば津波の状況が異常であるのは本能的に分かったはずである。不測の事態に「命を守る」のはリーダーに課せられた最小限の義務である。

 大川小学校は石巻市釜谷地区の北上川河口から約4`の川沿いにある。東日本大震災(3月11日)で全校児童108人のうち70人が死亡、4人が行方不明となった。遺族70人のうち23遺族が原因を明らかにしようと教育委員会を相手に損害賠償の訴訟を起こしている。この訴訟は「損害賠償」を求めるというよりは「どうして70人が死ななければいけなかったのか」という原因究明に重きを置いているように見受けられる。
 
 訴訟を起こしていない遺族の一人・中学校の先生(なくなった小学校6年生の父親)は招かれた講演のなかで「生徒が命に見えてくる」と述懐する。先生方はその命を具体的にどう守るかを常に問われているのだ。

 先生方に旧軍の作戦要務令の「なさざると遅疑逡巡するは指揮官の最もいましむるところ也」の言葉を送りたい。


(柳 路夫)