2014年(平成26年)12月10日号

No.629

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安全地帯(449)

信濃 太郎


中村屋サロン
―ここで生まれた、ここから生まれた―


 新装なった商業ビル「新宿中村屋ビル」の3階にできた「中村屋サロン美術館」で開館記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」を見る(12月1日・会期2015年2月15日まで)。ここ中村屋は明治末から大正・昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人が集まった場所である。「中村屋サロン」として日本近代美術史その名を刻む。展示されたのは絵画・彫刻など51点。

 目についたのは、中村彜の「少女」(1914年作・69.8×65.3p)。少女の半身像である。机にある本の上に両手を組み、視線は左に向けられている。その表情から意志の強い女性を感じる。モデルは創業者・相馬愛蔵・黒光の長女俊子である。時に14歳。俊子が中村彜の世話をするうちに二人は恋に落ちる。彜、26歳。俊子をモデルとした「少女裸体」(愛知県美術館蔵)も描き、1914年(大正3年)3月「東京大正博覧会」の美術館に展示する。俊子が学んでいたミションスクール女子聖学院が作品の撤去を要請する騒ぎとなる。これを機に中村彜と相馬家との間がうまくゆかず、彜は相馬家を去る。

 長尾杢太郎の「亀戸風景」(制作年不詳。45.5×73.5・)に足を止める。明治30年代の亀戸には緑が溢れ、牛が放牧され、まことにのどか。一隻の船を浮かべるのは隅田川と平行に南北に走る「十間川」であろう。亀戸普門院には「野菊の如き君なりき」の作者・伊藤左千夫の墓がある。墓碑銘は萩原碌山と交流のあった中村不折の文字である。左千夫は錦糸町堀精工舎近くで乳牛を飼っていたことがある。「牛飼が歌を詠むときに世の中の新しき歌大いに起きる」と喧伝された。この「亀戸風景」は黒光が嫁入り道具として勝海舟の書・オルガンとともに持参したもの。彫刻家・萩原碌山がこの画を見て感銘を受ける。18歳の少年は画に志すもその後、ロダンに師事し彫刻の道に入る。「真の芸術とは生命を捉え表現することにある」との境地に達し、不朽の名作「女」(1978年鋳造・98.0×80.0cm)を世の中に送り出す。不自由ながらも更なる高みに向けて生きんとする女の像と受け取った。この作品は作者が心に思う人を思いつつ鑿を振るった碌山の姿でもあるとも感じた。

 俊子と結婚したラス・ビハリボースについて触れる。中村屋名物「インドカリー」の生みの親でもある。1915年(大正4年)中村屋はインドの独立運動の志士ボースを匿う。ボースはインドで爆弾テロや武装蜂起を指導して日本へ亡命してきた。第一次世界戦争中の事である。英国は日本にボースの強制送還を要求。日英同盟のもと、日本政府は12月5日までに国外へ退去するよう命令した。この国外退去は死刑宣告と同じであった。はじめボースは孫文の紹介で頭山満を頼った。そこへ国外退去命令が出たので頭山満、犬養毅、内田良平らが相談して外国人のよく出入りする新宿中村屋へと匿われた。ボースはその後日本に帰化し、頭山満の進めもあって俊子と結婚する(1918年)。ボースは毎年、頭山満らの恩義を感じて新宿中村屋に招いて謝恩会を開いた。俊子は1928年,二児を残して28歳で死ぬ。名物インドカリーは1927年(昭和2年)レストラン開設時から看板メニューの一つであった。この日、二人の女性とともに頂いた「シーフードのインドカリー」はいつになく美味であった。