2014年(平成26年)8月20日号

No.618

銀座一丁目新聞

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安全地帯(438)

相模 太郎


入りにし人のあとぞ恋しき


 「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史ともいわれるが、作者はわからない。鎌倉北条一族の人たちの共著と言はれ、多くの資料を収集して大典をつくり、鎌倉時代前半を調べるには欠かすことができない。ただし、あくまでも、北条氏を悪くは書いていないのを念頭においてお読みいただきたい。

 さて、源平合戦で大活躍した義経は兄頼朝の許可なしに朝廷より左衛門少尉(しょうじょう)、検非違使、従五位を受け、兄弟関係が険悪となり、頼朝が義経を追討するとの報を受け、西国へ脱出しようとしたが、これに失敗し吉野山へ、その時連れて行ったのが19歳の白拍子、まして懐妊中の愛妾「静」であった。しかし、ここも追っ手に発見され、雪の中、別れ別れとなり、付いていた従者には逆らわれ無一物となり、雪中を彷徨、遂に「静」は捕まって鎌倉送りとなる。時は文治元年(1185)11月17日であった。鎌倉では数回義経の居所についての尋問を受けたが「静」は知る由もなかった。

 文治二年(1186)4月8日、頼朝の正室北条政子は、白拍子の静の舞を観たくて何度か要請し、静もついに拒み切れず、鶴岡八幡宮の回廊で(記録は舞殿ではない)踊ることになった。たぶん妊娠6か月と思われる。記録でも「静」は、容姿端麗、才気煥発の女性だったに違いない。平清盛と常盤(ときわ)御前の関係同様、内心、頼朝も好意を寄せていたのではないか。工藤祐経の鼓、畠山重忠の銅拍子でおこなわれた。頼朝夫妻以下の多くの人々はシンと静まり、かたずを飲んで見守った。

 意外にも、静はまず「よし野山みねのしら雪ふみ分けていりにし人のあとぞこいしき」と吟じ、舞を始めたのだ。そして次に「よし野山みねのしら雪ふみ分けていりにし人のあとぞこいしき」と愛する義経の恋慕を大衆の面前で切々と訴えたのであった。観衆一同感動し、静の悲しみに胸をうたれた。しかし、頼朝は違った。八幡宮の社前では、関東の万歳を祝うべきなのが、反逆の義経恋慕の歌を吟ずるとは、可愛さ余って憎さ百倍か、とんでもないことだと烈火のごとく怒った。傍らにはべる賢婦人政子は、その頼朝にかの有名な言葉でたしなめたのであった。現代に生きるご亭主もなにか胸を打つものがあるのではないか。

 原文を其のまま転載する。

君、流人(るにん)として豆州(…伊豆)に坐(おわ)しましたまふの比(ころ)、吾において芳契(ほうけい-…ちぎり)ありといえども、北条殿(政子の父時政)、時宜を怖れて、ひそかに引き籠め(監禁)られる。しかれどもなお君に和順して、暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君が所に到る。また石橋の戦場(小田原市石橋)に出でたもふの時、ひとり伊豆山に残り留まりて君の存亡(居所、生死)を知らず日夜魂を消す。その愁(うれ)いを論ずれば、今の静が心のごとし。豫州(…義経)の多年の好(よしみ)を忘れて恋ひ慕はずんば、貞女の姿にあらず、外にあらわるるの風情(ふぜい…様子)に寄せ、中に動くの露膽(ろたん)を謝す(…悲しさを秘めて踊ってくれた気持ちを察し感謝する)。もっとも幽玄(…奥深くはかり知れない)といひつべし。枉(ま)げて賞玩したまうべし(…我慢してほめてあげなさい)。

 政子は流人頼朝に熱烈な恋愛をし、父時政の意見を振り切って頼朝の懐に飛び込んでいった烈女である。往時を回想し、静におのれを照らしたのであろう。頼朝も男冥利につきるのではないか。やがて、頼朝も着ていた「卯の花重ね」の着物をご褒美にあげた。

 静は7月29日男子出産、悲惨にも謀反人の子として頼朝は安達清経に殺害を命じ、由比ヶ浜に埋めさせた。静は、子供を渡すまいと必死に抵抗したが、母の磯禅師が取り上げて安達に渡したという。9月16日傷心の静と母は政子や娘大姫よりたくさんの贈り物をもらって京都へ帰っていった。

 文治5年(1189)閏4月30日庇護していた藤原泰衡、兵数百をもって義経の居館衣川館を襲撃、応戦するも衆寡敵せず妻子を手にかけ、自刃。

(参考文献)「全訳吾妻鏡」貴志正造編 新人物往来社、「日本合戦史」奥富敬之著 岩波BS、「源義経のすべて」奥富敬之著 新人物往来社、 
(おことわり)鎌倉歴史に関する相模太郎の参考文献のうち、著者奥富敬之先生のお名前を孝之と誤っていました。謹んで訂正申し上げます。

(筆者撮影)

まだ大イチョウ健在時の鶴岡八幡宮 北条政子の墓(鎌倉寿福寺) 義経のいる平泉に行く途次斃れたと
伝説のある静の墓