2014年(平成26年)7月1日号

No.613

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追悼録(529)

沖縄戦で玉砕した牛島満中将を偲ぶ

 「沖縄慰霊の日」にブログに次のように書く(6月23日)。

『「沖縄慰霊の日」。前日の22日、追悼慰霊祭の前夜祭で沖縄協会の清成忠男会長は「現在の生活が幾多の尊い犠牲の上に築かれていることを忘れてはいけない」と挨拶する(毎日新聞)。このことを忘れている人々が意外に多い。 
69年前の沖縄戦で、沖縄方面根拠地隊司令官太田実少将(海兵41期)の決別電報「県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」はあまりにも有名だ。 太田少将は海軍では陸戦の最高権威者であった。第一次上海事変甥に苦戦を続けて上海日本租界を守り通した武将であった。 
沖縄戦で自決した第32軍司令官牛島満中将(陸士20期)も猛将であった。アメリカの雑誌が第二次大戦の日本の名将を2名挙げた。牛島中将と硫黄島で玉砕した栗林忠道中将(陸士26期)であった。
牛島中将辞世の歌。「秋をまたで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に よみかへらなむ」
戦争は民間人に多くの犠牲者を出す。沖縄戦で10万人の島民が犠牲になった。外交力で戦争を避ける方策を追求しなくてはならない。そのために必要な軍備がいるのを銘記すべきである』
 
 戦後、牛島中将の辞世の歌に注目したのは折口信夫であった。桶谷秀昭著「昭和精神史」(戦後編・文春文庫)を借用する。折口は「皇国の春によみがへらなむ」に感動する。この「なむ」という動詞の未然形を受ける語法は、文法学者の説明によれば終助詞といって祈り、それも相手に向かってあからさまにいふ祈りでなく、ひそかに、ひとりごとのようにいふ祈りである。心細いだけに、その切実な感情はひときわ深いものがある。つまり「よみがへらなむ」と詠んだ辞世の句を「よみがへってくれ」「よみがへってくれるように…」という意味で、わが身の志を継承して行くもののあることを祈っていることになるという。折口が打たれたのは「そうした歌詞の文法に馴れていられるはずのない将軍がどうしてかういう緻密な表現を獲たか」といふ感動であった。

 私に言わせれば、牛島中将の人柄から発せられた表現だと思う。豊かな感性が生んだ言葉である。経歴は鹿児島の産。陸士恩賜、陸大28期、陸軍予科、本科士官学校、戸山学校などの校長を務め、「わしは陸軍の教育家だ」と自称する。

 この期の大将は自決後大将になった牛島中将のほか朝香宮鳩彦殿下、東久邇宮稔彦殿下(終戦時総理大臣)下村定(陸軍大臣)木村兵太郎(東京裁判で法務死)の4人を数える。軍人は歌など詠まないという先入主があるのであろうか、軍人は意外と作詞がうまい。牛島中将と同期の高頭虎四郎が作詞した軍歌「仰げば巍巍たる」(曲はああ玉杯の譜)は陸士の生徒たちが好んで歌った歌である。軍歌「西豺狼の」(曲は一高寮歌『緑もぞ濃き』の譜)も同じ期の篠原次郎(のち中将)の作詞である。いずれも香り高き名詞である。

 牛島中将の32軍の高級参謀であった八原博通大佐(陸士35期)は牛島中将の最後の場面を次のように綴る。「かねて期していた処に従い日ごろ西郷さんと愛称された牛島司令官は参謀長(長勇中将・陸士28期)とともに6月22日午前4時30分残月南海に没せんとする頃、海岸に屹立する断崖上に於いて剣道五段坂口副官の介錯で見事自刃し果てられた。両将軍共に死に臨んで悠々、その顔容は神とも仏とも見まごうばかり、一切の思念を超えて清々しくおだやかであった」(完本・太平洋戦争下・文芸春秋編)。時に牛島中将56歳,長参謀長49歳であった。

 桶谷秀昭は嘆く。「戦争が終わり、異国軍隊の占領下に置かれた日本の日常生活に、一人の武辺がさし迫った境遇で深い微妙な感情をおのづからのように表現するといった仕草は地を払ってしまった」。それはいまだに続いている。日本人は骨抜きにされてしまった。

 「敷島の 枯れし青草 さ迷えり 皇国に春は 未だ来たらじ」(詠み人知らず)

(柳 路夫)