2014年(平成26年)3月10日号

No.603

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安全地帯(423)

信濃 太郎


外相小村寿太郎と日露交渉


 日露戦争の講和条約に活躍した小村寿太郎外相を取り上げたい。そう思い調べてみたところすでに多くの事が書かれており何を取り上げてよいのか迷ってしまった。文献をあさっているうちに樺太千島交換条約交渉に目が留まった。この条約は明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約。日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。このため、1874年3月、樺太全島をロシア領とし日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千18島を日本が領有することになった。

 これについて、当時大英博物館の東洋書籍部長のサー・ロバート・ダグラスがロンドンタイムズに寄せた興味深い書簡がある。ロシアの外交官が政治目的を実施に移す“独特の手法”があるというのだ。領土問題で紛争が起きるとまず両国の共有に使用しようではないかと提案する。当時問題になっていた朝鮮については「共有」ではなく「勢力圏」という言い方をした。ロシアの言う共有とは「ロシアの占有」と同義語なのである。「勢力圏」もまた同じ意味を持つ。外交用語には相手の意図が隠されているということである。ロシアは樺太を流刑囚植民地として使い始め、日本の抗議にもかかわらずやがては面積7万6400平方キロメートルの樺太全島を千島との交換で手に入れた。

 さらにこの書簡は驚くべき事実を明らかにしている。当時としてはやむを得なかったことだとしてもサムライたちの名誉を深く傷つけた恥ずべき領土割譲であったとして明治22年、蝦夷の屯田兵の大原武美中尉が東京の先祖代々の墓の前で割腹自殺をしたという(ヘンリー・ダイアー著「大日本」訳平野勇夫・実業之日本社刊)。大原の自決は条約締結から14年もたつ。屯田兵は北海道の警備と開拓のために明治8年に設けられた制度、明治15年には開拓使から陸軍省の所管になる。生活に困った元武士がなった。武士は何年たっても「恥を知る心」を忘れなかった。「領土割譲は屈辱」だと思い、抗議の切腹という行動に出たに違いない。ロンドン条約の時にも抗議の自殺者が出ている。

 この本に小村寿太郎の名が登場するのは明治28年10月8日起きた朝鮮国王高宗の妃閔妃殺害事件の際である。小村寿太郎は駐朝公史として派遣され事態収拾に当たり見事な外交手腕を発揮したとある。子供の時神童と言われた小村の役人の世界は決して順調ではなかった。7歳で藩校振徳堂に入り首席で卒業、選ばれた5人の藩の優秀な子弟とともに長崎に英語留学する。宮崎飫肥藩からただ一人小村が大学南校入学、学業成績抜群で卒業、成績は鳩山和夫に次いで2番であった。明治8年第1回文部省留学生として渡米ハーバート大学で法律を修め、卒業後現地で実務を学び、明治13年26歳で帰国した。司法省を経て明治17年外務省に転じる。父の残した負債に苦しめられ生活も苦しく着る洋服もひどいものであった。大学南校で一緒に学んだ友人たちの援助で借金は消えたが生活は相変わらずであった。

 救ってくれたのが陸奥宗光外相であった。陸奥は飫肥藩出身、振徳堂で教えたこともある安井息軒の三計塾の門下生である。陸奥は振徳塾で学んだ小村にとって同門の先輩にあたる。この三計塾からは谷干城(農商務大臣)、品川弥二郎(内務大臣)らそうそうたる人物を出している。

 陸奥から与えられたポストは北京公使館代理大使であった。閑職であった。小村は猛勉強をした。清国通の第一人者と言われた先輩の20年間にわたる記録を読み、欧米人の書いた清国関係の書物を読みあさった。さらに総理大臣李鴻章としばしば会い、各国公使を歴訪,北京倶楽部で外国人と交わり、彼らの清国観を聞くことに務めた(吉村昭著「ポーツマスの旗」外相・小村寿太郎・新潮社刊)。日清戦争では小村寿太郎の情報・報告が適格を究め大いに役立った。陸奥外相は小村の適確な予想を受け、清国との開戦を回避不能と判断した。この際、小村は講和条件について今から十分研究しておく必要があると進言している。

 さらに占領した清国安東県の民政庁長官になった小村の采配が第一軍司令官山県有朋大将の目に留まる。小村が清国軍隊の内情に詳しいのに感嘆し、司令部に招いて小村の話を聞く。民政関係を担当していた第3師団長桂太郎中将も小村の識見と行動力に敬意を抱く。いかに普段の勉強が大切であるかを我々に如実に示す。その実力が次第に政官界の上層部に知れてゆく。閔妃殺害事件を無事に収めて明治29年6月、帰国して外務次官になる。脚光を浴びる小村寿太郎に日露戦争が迫る。