2014年(平成26年)2月10日号

No.600

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安全地帯(420)

信濃 太郎


統帥乱れて  北部仏印進駐


 「西原一策。騎兵科の首席(陸士25期、中将)、陸大恩賜(34期)東大政治学科卒の秀才。北部仏印進駐時仏印監視団長としてフランス当局との交渉に任じていたがこの時、現地日本軍指導のために来ていた富永(恭次、陸士25期、参謀本部作戦部長)と意見が衝突し、その強引なやり方に腹を立て大本営に『統帥乱れて信を世界に失う』と発電して物議をかもし罷免された。その後、機甲本部長在任中、昭和20年1月病没した」と、桑原嶽著「市谷台に学んだ人々」(文教出版)にある。

 もう少し説明を加える。電報は西原一策少将が昭和15年9月26日、駆逐艦『子の日』から「陸海軍次官、次長」(陸軍は阿南惟幾次官・澤田茂参謀次長)あてに打っている。電文は「統帥乱れて信を中外に失ふ、今後の収拾に関し少官等必ず東京に帰り報告の必要ありと確信す」とあった。同席したのは小池竜二大佐(陸士31期,のち少将・仏印国境監視員・終戦時侍従武官)高須四郎中将・第2方面派遣艦隊司令長官(海兵35期)原忠一同艦隊参謀長(海兵39期のち中将)その他。同席した大井篤参謀(海兵51期)は電文を見て「諸葛孔明の出師之之表の名文を読まされたような感動を受けた」と語っている(大井篤著「統帥乱れて」毎日新聞刊)。

 当時に日中戦争のさなかで重慶の中国軍は仏領インドシナから雲南省の昆明に至るルート等で米国、英国、ソ連などから軍需品などの援助物資を得ていた。昭和15年6月、フランスの敗北がはっきりすると日本はフランスに対して仏印ルートの閉鎖を要求、同時に軍事監視派遣を申し入れた。これにフランスは即座に応じた。8月30日、日本軍の北部仏印進駐に関する協定が松岡洋右外相とアンリー駐日大使の間で締結され、現地細目の協定がハノイで西原大本営仏印派遣機関とドクー仏印総督(海軍中将・極東艦隊司令長官兼務)の間で行われた。9月4日協定が成立したが翌日、第5師団の一大隊が越境事件を起こし話が元に戻ってしまった。

 越境事件には伏線がある。実は東京での中央協定が成立すると富永少将・参謀本部作戦部長が両総長(閑院宮載仁親王陸軍参謀総長・伏見宮博恭軍令部総長)の指示で西原少将を補佐する名目で現地ハノイに赴いた。交戦中でもない対仏交渉に統帥部両総長から「現地作戦を指導すべし」の訓令を懐に入れていたという。初めから交渉をまとめるつもりはないように見える。何が何でも”武力行使だ”という態度である。交渉が難航すると、富永少将は西原少将に5日以後兵力を進駐すると通告させた。これに仏印側が折れやっと妥結した。現地軍には越境進撃準備命令を出しており、第5師団歩兵21連隊に所属する2個中隊(指揮官森本宅二中佐)は協定成立して進攻中止の軍命令が大隊に届いるのにかかわらず、一夜明けてから越境した。「大本営陸軍部戦争日誌」の9月10日付欄には、森本大隊長越境事件に関連して「何故にこの機を利用して越境せざるや。第五師団長と第22軍司令官ともに責任をとる勇断なし」とある。

 交渉は紆余曲折あった。もともと日本は武力進駐を決めて交渉に臨んでいたのだが、結局、協定は9月22日成立した。ところが、この協定も日本軍のランソン、ロクビンなどへ進撃、戦闘となって24日に破られてしまった。西原少将は南支那方面軍軍司令官、第22軍軍司令官、第2派遣支那方面艦隊司令官あてに「至急止められるよう善処方を要望する」旨の電報を打つ。このころ相手から信望のあった西原少将だが味方から仏印側の手先とみられていた。現に前線には南支那方面軍から「注意」として「西原機関小池大佐の言うことを聞くな」という命令が出ている。だから第一線で小池大佐が停戦斡旋しても日本軍は取り合わなかった。平和進駐を願う海軍側も西村兵団(琢磨・陸士22期・当時少将仏印派遣軍司令官・中将)の上陸に協力不可能の態度をとった。白浜栄一少佐参謀(海兵52期)の参謀本部一部長あての電報には「南支那方面軍司令部の謀略の張本人は富永少将,荒尾中佐(興功・陸士35期・陸大42期・恩賜)なりと観察しあり」とある。大井篤参謀も戦後同年輩の旧陸軍の人からこんな話を聞いたとして書く。「富永が中将として東条内閣の陸軍次官兼陸軍省人事局長をしていたとき『北部仏印進駐がボクの企画通りに行われていたとしたらボクは論功行賞で子爵くらいになれたところだった』といった」という。大井さんは陸軍側が示したあのすざましいばかりの武力行使への執念は論功行賞問題を除外して解釈できにくいというのだ。

 北部仏印進駐に関して東条英機陸相(陸士17期・陸大27期・独駐在・昭和15年7月22日陸軍大臣・昭和16年10月18日総理大臣)は「統帥越権」とみなして越境した森本中佐を軍法会議にかけ、南支那方面軍司令官安藤利吉中将(陸士16期・英駐在・陸大6期・恩賜・のち大将)を罷免、22軍司令官久納誠一中将(陸士18期・陸大26期・恩賜)と第5師団長中村明人中将(陸士22期・陸大34期・恩賜・のち第3師団長)を予備役編入他、旅団長らも罷免、処罰した。富永少将も東部軍付となる。だが、富永少将は昭和16年4月には陸軍省人事局長となり大東亜戦争開戦時の人事を握る。西原少将は昭和15年12月、騎兵学校の校長になる。

 5師団長中村明人中将はランソンで将兵と別れる。そこで一首一詩を詠む。
 「諸共に 眺めし月は 変わるまじ 清き心の 鏡とやせん」
 「秋風寂々たり粤南天
 ランソン城頭残塁のほとり
 遥かに神州を拝して心血に誓ふ
 尽忠報国この年にあり」

 後の昭和18年1月、タイ国駐屯軍司令官に任命され“仏の将軍”とタイ人から慕われる。

 東条大将・陸相は「統制」を旨として指揮系統と手続きの完全保持を心がけた。「いやしくも上下の命令関係を乱すような行動に対してはいささかの斟酌もしなかった」と児島襄はその著「指揮官」(上・文春文庫)に記す。寺崎英成の『昭和天皇独白録」(文芸春秋刊)にも「陸軍大臣時代に大命に反して北仏進駐をした責任者を免職して英断をふるったこともあるし…」とほめている。それが近衛文麿内閣の後の東条首相誕生の一つの要因となるのは時代の流れというほかない。

 北部仏印進駐事件の原因を大井篤参謀は次のように見る。直接的にはヒトラー心酔があげられるという。「仏印暴走の張本人の富永や佐藤(賢了・陸士29期・当時南支那方面軍参謀副長のち軍務局長)は東条の腹心中の腹心であった。その暴走の絶頂に達した時点の9月下旬(9月27日発表)日独伊同盟が成立したことをただの偶然と観たら史観貧困の告白となる。また松岡外相の同盟促進の立役者ぶりに目を奪われ、東条陸軍のヒトラー心酔に目をつぶったら歴史の教訓を誤る」と書き残す(前掲「統帥乱れて」)。なお付け加えれば、大井は佐藤とは昭和15年5月26日仏印進駐の可否について論争している。それはヒトラー支持派と非支持派の対立であった。もっとも米国駐在武官、留学の経験を持つ大井篤大佐が優れて米国通であり米国が援英討独の参戦を見通すのは当然であるがその歴史観に敬服する。また、昭和14年8月23日「独ソ不可侵条約」の報が飛び込んできたとき、その「不可侵」という言葉の持つ不明瞭・腹黒さから「これは戦争になるぞ」と発言した識見は見事というほかない。

 「統帥乱れて信を中外に失ふ」この教訓を忘れてはなるまい。