2013年(平成25年)8月20日号

No.583

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安全地帯(403)

相模 太郎


悲劇の御曹司 源(木曽) 義高


 関東山脈のすそに広がる武蔵野の面影を残す埼玉県比企郡嵐山町大蔵は、平安末期、京から上野(こうずけ)、武蔵と勢力を伸ばした源頼朝の父義朝の弟義賢(よしかた)の館(やかた)があった。そこで生まれたのが有名な源義仲で、頼朝とは従兄にあたる。まだ、幼いころに頼朝の異母兄義平に父義賢が討たれ、(つまり義平は叔父殺し)近くの斎藤実盛が助けて信濃、木曽と各地の豪族に育てられ、木曽義仲と称された。長じて源氏挙兵に呼応し信濃北陸方面より平家を倒した。しかしいろいろな事件を経て頼朝と対決し、人質としてわが子義高(清水冠者と称す)を頼朝のもとへ出す。

 今回は、その義高の物語である。人質ではあったが、表面は、当時5,6才の頼朝の娘大姫の婿(むこ)として海野幸氏(長野県東部町海野―海野宿の武士)を従え鎌倉に赴いたが、翌、寿永3年(1184)正月、父義仲は不運にも源氏同士の近親相克、いとこ頼朝に近江(滋賀県)粟津で討たれてしまう。平家物語の「ひごろは、なにとも覚えぬ鎧が、今日は重(おも)うなったるぞや」と猛将義仲が悲痛の最期をとげる涙をそそる名場面である。

 これからは、筆者なりの史実には基づくも、多少粉飾想像の物語になる。頼朝は自分の生い立ちが、平治の乱で敗れ、捕らえられ斬罪になるところを平頼盛の母、池の禅尼の命乞いで助けられ伊豆配流となり、長じて平家を打倒した前科がある。同年元暦元年(1184)4月頼朝は、義高の成長後の復讐をおそれ、ひそかに殺害を企てる。しかし、わずか1年とはいえ、幼い大姫には御所で一緒に遊んでくれる大事な「お兄ちゃん」であった。大姫は生来ひ弱だったらしいがよくなついて仲良かった。時に義高11才。海野幸氏も11才。母政子もよく理解していたと思う。政子が頼朝の企てに気付き、いち早く女装をさせ、幸氏を身代わりに寝かせ御所から逃がす。行く先はおそらく生父の地、埼玉県嵐山町であったようだ。これに気付いた頼朝は家人の堀 親家に追討させる。やっと入間川まで逃げて来たところで殺害されてしまう。場所は現在の航空自衛隊入間基地、もと陸軍航空士官学校の段丘の下、国道16号線と入間川のあいだあたりで、今でも清水神社とか、義高がかくれた影隠し地蔵とかが残っている。

 そのあとがまた悲劇である。あんなに慕っていたお兄ちゃんを失った大姫の嘆きは、病弱も重なり今でいう「うつ病」になってしまう。政子が神仏や医者にすがり、いくら手を尽くしてもても快方に向かうことはなかった。一時期、頼朝は大姫を後鳥羽天皇に入内させようとの野謀を企てたが、うまく事は運ぶ訳はなかった。そして、建久6年(1195)7月14日病床の大姫は、父に翻弄された波乱の人生を終えた。20才足らずではなかったろうか。

 鎌倉駅北500mぐらい横須賀線の小ガードの近くにある岩船地蔵堂は、大姫の墓所と伝えられ、本尊の地蔵立像の銘札「右大将頼朝御息女之守本尊」とある。また、熱海市伊豆山神社の下、国道の頼朝政子伝説の逢初(あいそめ)橋そば逢初地蔵堂には、政子が大姫の延命を願って安置した仏像が納めてある。そして、鎌倉市大船の鎌倉女子大近くの、三代目の名執権と呼ばれた北条泰時の墓所のある常楽寺の裏の小高いところには木曽塚といわれる義高の墓がひっそりたたずんでいる。そしてそのわずか下に大姫の供養塔がたっている。ここで、二人はやっと結ばれることが出来たのであろう。常楽寺は政子が阿弥陀三尊を安置して二人の菩提を弔って小堂を建てたのが始めという。実際に寺の前の木曽免といわれるところから古い骨の入った骨壷が出土して問題になったことがあるそうだ。また、身代わりの海野幸氏はその後、許されたらしく、弓の名手として鎌倉時代公的史書の吾妻鏡に散見する。(岩船地蔵堂は夭折した次女乙姫の墓との説もある)

義高を祀る清水神社(埼玉県入間市)

 義高が逃亡中隠れた影隠し地蔵(同入間市)

筆者撮影