2013年(平成25年)5月1日号

No.572

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安全地帯(392)

川井 孝輔


蘭亭序に感あり

 友人の川井孝輔君が一文を寄越した。日ごろから旅行記、写真などをいただいている。何事も几帳面で下調べをし、格調高い文章を書く。得難い友人の一人である。月に一度、我々の会合(首都圏幹事会)がある。終わった後、時には近くでコーヒーを飲んで雑談する。ここに川井孝輔君の「蘭亭序」を紹介する。


 「上野の国立博物館に、王羲之展を観てきた。首都圏幹事会(2月28日)の当日、序での積りで出かけたのだったが、なんと長蛇の列。入館するのに40分以上も待たされて仕舞った。その上、案内のイヤホーンを借りるには,さらに30分以上も待たねばならぬとの事。やむなく其の儘鑑賞の列に並ぶことにした。室内の混雑ぶりはご想像に任せたい。熱心な観客の遅々たる歩みはなかなかに進まないのだ。さりとて後ろからでは肝心の作品が確認できずに、どうしても流れに乗らざるを得なかった。時間を気にするとイライラするばかりだが、こればかりは如何ともし難く、どうやら予定の時間内には収まらなくなった。それに年のせいか、展覧会場を廻るとかなり疲れを覚えるので、午後の幹事会をキャンセルすることに腹を決め、一休してからにした。

 お目当てはもちろん、誰しもが蘭亭序であるはずだが、そのためにも王羲之についておさらいをしてみよう。王羲之はなんと紀元303年というから今から1710も前に、徐州の北東150qの臨沂市に生まれたのだ。政治家としても有力な門閥貴族琅邪王氏の出身である。彼自身も、やがて現在の浙江省紹興市に近い会稽郡の長官に任ぜられるのだが、自然の山水に恵まれたその土地柄が気に入り,此処を終焉の地と定めてしまった。353年の3月3日、当時の名士1名を招いて流觴曲水の雅宴を開いた時に、客たちが詠んだ詩集の序文として書いたのが有名な蘭亭序である。そのことは昔から承知していたが、詳しい事は会場で厚さ2.5pの大版図鑑を購入して知ることができた。曲水の上流から大きな觴(さかずき)を流して、自分の前に觴が着くまでの間に詩を作るという優雅な遊びだ。出来なければ罰として酒をのまなければならない。この日2首の詩をなした者11人。1首をなした者15人で、酒を飲まされた者が16人だったと書いてある。合計すると数が合わないのだが、当時10歳の末子王献之がこの席に侍って居たとの記録が有るからそのせいだろうか。長じて王献之も父と肩を並べるような書家になったので、王羲之を大王、王献之を小王と称してあわせて二王と呼んだ。二王が後世の書人に残した影響は絶大なものがあり、書を学ぶ殆どの人が今なお王羲之の書風を追っていることは周知のことである。ところが王羲之は、不仲であった王述が会稽郡を管轄する揚州刺史となると、職責に嫌気を差して355年53歳の時にやめてしまい、隠遁生活に入ったという。それから書に専念する一方、知人その他に多数の書簡を送ったといわれ、その模写されたものが今日数多く残っているわけだ。そして361年59歳で亡くなったといわれる。

 降って598〜649年に君臨した唐の太宗は、王羲之の書を熱愛したのだが嵩じ、人を欺いてまでして蘭亭序の真筆を手に入れたらしい。しかも死ぬときには、それを副葬品として棺に納めさせ、埋葬させてしまったのである。時は戦乱の時代でその影響が厳しく、王羲之の真筆は殆ど焼失したとされる。しかし唐代以降に複写されたものと石版・木版に模刻して制作された拓本は数多く残され、日本にもかなりの数が存在するようだ。今回の場合、意外にも台東区立博物館所蔵のものが多くみられたが東京国立博物館他著名な博物館や、個人所蔵のもの163点が展示されていた。書だけでなく、流觴曲水の雅宴ほかの珍しい絵もあって大変興味深く鑑賞できた。

 プライベートなことで恐縮だが、結婚した当時、岳父から鉢植えと書画をもらっていた。鉢植えは多くを枯らして仕舞い、今では観音竹しか残っていないが、書と墨絵の方は軸として立派に残っている。これにならって書を残すことを心に秘め、近くの塾で習字を練習したことがある。楷・行・草・篆の基本から教えられたが、もともと金釘流が急に上手くなるはずもない。それがある時、蘭亭序を書くことを勧められ、これは念願叶える好機と思い、喜んでとりかかったものだった。324文字の条幅である。誤字・脱字と紙面を汚さぬように、気を遣いながらの書は厳しいものがあった。それに、間を開けると調子が狂うので一気に書き上げねばならず、これには参った。仕上げるのに数時間もかかるのだから、大変である。もう20年も昔の事だから、気力・体力が残っていたのだろう、どうにか恰好だけはつけて先生のお許しを得た。幅164pの額に収めて、客間の長押に飾った。出来栄えは無論論外の話だが畳に寝そべって時折眺めてみると,よくもまあ書けたものだと、努力の跡を自賛しながら感慨にふけるのである。ただ指導していただいた先生が急逝されて仕舞い。すっかり書の道を絶ってからすでに久しい。今少し続けて居ればよかったなあ…と思う、今日この頃ではある。(注・川井君が書いた長押に飾ってある「蘭亭序」の書の写真、王羲之の蘭亭序全文・その紹介・現代語訳などもいただいた)