2013年(平成25年)3月1日号

No.566

銀座一丁目新聞

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追悼録(482)

高野悦子さんをしのぶ

 

 亡くなった高野悦子さんを「どんな人・・」と問われて「深慮遠謀の人」と答えたのは大竹洋子さん。高野さんと映画の道を38年、一緒にしてきた人である。なるほど思う反面、少し違うなとも思う。むしろ、いい意味で「猪突猛進の人」ではなかったか。29歳でフランス語もしゃべれず、パリのフランス高等映画学校に入学するなど正気の沙汰ではない。私など高野さんから「滞在してしばらくたつと今までフランス語が蝉の鳴き声しか聞こえなかったのが言葉として聞こえるようになった」という話を聞いて、その猪突猛進の努力に涙が出たほどであった。若いとき海軍兵学校を志したという話を講演会で聞いたとき「なんと無謀なことを考える人だ」という印象を持った。

 高野さんとの付き合いは昭和53年ごろ「週刊朝日」に紹介された名映画発掘の苦心話がそのまま本になると感じて神田神保町の岩波ホールでお会いし、本の出版をお願いしたのが始まりである。お互いにハルピン、大連で少年期を過ごしたというので親近感を抱いた。その時の出会いが高野さんの最初の本、「シネマ人間紀行」(毎日新聞)となって実をむすんだ。

 やることがかなり無謀である。あるとき、羽田澄子さんのドキュメンタリー映画「片岡仁左衛門」映写時間8時間ものを岩波ホールで上映するから入場券300万円分買ってくださいという。即座にOKした。何と映画の評判は上々で連日満員であった。間もなくすると「入場券を買い戻しさせてください」という始末であった。さらに木下順二演出「子午線の祭り」(平成4年・第5次・セゾン劇場)をやるから3000万円を出してくださいと言ってきた。ともかく高野さんのやる企画は不思議とすべてあたる。今度も即座に承諾した。おかげで木下順二さんを知り、敦盛役に扮した嵐圭史さんとの付き合いをするようになった。

 高野さんや大竹さんと一緒に埼玉芸術劇場で1年間にわたり世界名映画上映会を展開したのも忘れ難い。藤原智子監督「伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心」を上映、高野さんが金梅子から指導を受けて韓国舞踊を舞台で披露した。見事な踊りであった。ここまでくれば『猪突猛進』は一級の芸術品である。得難い女性であった。私たちは「寒い北風 吹いたとて おじけるような 私じゃないよ」(満州国唱歌)の仲であった。お互いの気持ちは十分わかっていたと思う。享年83歳。心からご冥福をお祈りする


(柳 路夫)