2012年(平成24年)4月1日号

No.534

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安全地帯(354)

市ヶ谷 一郎


みほとけ受難


 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな(与謝野 晶子)。有名な歌である。実は上品上生の印(じょうぼんじょうしょうのいん)という指の組み方で阿弥陀如来というのがわかる。晶子もあまりの美男でポッとしたのかも。

 ころは嘉禎4(1238)年3月23日執権北条泰時の時、最初は木造の阿弥陀如来の建立が開始された。吾妻鏡にはこの日は人家が壊れるような台風で大荒れだった。「深沢の里の大仏堂事始めなり。僧淨光、緇素(しそ・・僧と一般の人)を勧進(かんじん・・寄付を集め)せしめ、この営作を企(くわだ)つ」とあるが、この大仏さまは奈良の大仏などと違い、国民の税で建立ではなく、一般の人々の寄進で作られたのを特筆したい。

 今、拝観料を取って、本堂もなく公園の雨ざらしの大仏さまのようだが、実は世界遺産に申請している由緒ある国宝の建造物なのである。寺舎はないが正確には浄土宗大異山高徳院清浄泉寺のご本尊なのだ。なんとも言えない良いお顔である。 

 東大寺と同じように大仏殿もあった。大仏殿は、「寛元元(1241)年6月16日阿弥陀像(木造?)を安んじ今日供養を展(の)ぶ。」ふたたび吾妻鏡は、「この六年の間、都鄙(とひ・・町や村)を勧進す。尊卑(そんぴ)、奉加せずということなし。」と書いている。まさに民衆の仏様である。次いで建長4(1252)年8月17日「深沢の里に金銅八丈の釈迦如来の像を鋳始めたてまつる。」とある。どうもこの八丈(一丈は約3b)は周囲らしい。現在の大仏の高さは三丈七尺の阿弥陀仏であり2度目の金銅仏か?このへんが謎に包まれるのである。

 後の高徳院は南北朝時代建武元(1334)年8月太平記によると中先代の乱で「大風、大仏殿棟梁微塵に倒れ、相模次郎時行(北条 高時の遺児)の軍兵五百余人すべて圧死す」とある。その後再建されたが、応安2(1369)年、大風で倒れ、また、再建され、明応4(1495)年8月15日(想像震度5)大地震があり、由比ヶ浜から押し寄せた大津波により、終に海から800bもあった大仏殿は流失した。(明応7年にも遠州灘を震源とするM8以上の大地震、津波が東海道全域を襲い死者数万人、このとき大仏殿流失との説がある)その後多少の隆起、沈降はあるとしても、現在の海抜は11.8bであるから、威力は12b以上だったのだろう。溺死者200余人、ああ無情、以後み仏は露座(雨ざらし)になって再建はなかった。

 一方、み仏は何回かの修理はあったものの健在だった。いまでも右ほほには金箔が僅かに残る。いまは周囲に大仏殿の礎石だけが残り、観光客はなにも知らず礎石をベンチ代りにアイスクリームを食べている。かつて鎌倉が衰退していたころの大仏さまはいくら民衆の寺といい、胎内がこどもの遊び場だったり、男女の密会、ばくちをやったり、乞食がたき火をしたりしたらしい。今は小額の拝観料で胎内めぐりができるが鋳物の湯の流れ具合、型つぎ、補修の状況など見ることができる。

 ところがたいへん、ご本尊が動き出す大事件が勃発するのである。ときは大正12(1923)年9月1日12時ごろ相模湾北西部を震源とするM7.9の関東大震災が発生した。鎌倉は、震源地に近く、「鎌倉震災誌」によれば、全戸数4183のうち全壊1455、半壊1549、埋没8、流失113、焼失443、避暑に来られていた皇族・名士を始め死者412人の大被害をもたらした。さて、大仏さまは津波こそ到達しなかったが、全体に約45a前方に滑り、台座が前に約45a、約右後側9aもめり込んだ。不幸中のさいわいは前方に滑ったため免震の効果で破損、転倒を免れた。その証として、翌大正13年1月15日の余震と思われる強震では反対に約30aも後退したのである。勿論昔の工人は免震構造など考えてはいなかったであろうが、これをヒントにに昭和35(1960)年、免震工事にステンレス板を台座との間に入れ、揺れが来ても滑って重心が外に出て倒壊を防ぐよう改修。また、お首の部分も内側からプラスチックで補強した。現在鎌倉市は、大津波の想定を8bから14.4bに変更し、JR鎌倉駅周辺を巻き込み鶴岡八幡宮まで約2`bを押し寄せるとされ、長谷方面の谷戸は高徳院もひと飲みとのハザードマップに、鎌倉は戦々恐々なのである。勿論大仏さまも逃れようはないが、なんとか頑張っていただきたいものである。吾妻鏡などの文献によれば、鎌倉はしょっちゅう地震があったようで、このごろ、少ないのがかえって気味が悪いが、とにかくお静かにお願いしたい。鎌倉はトンネルや切り通しを通らなければ入れないのだから、地震で壊されれば孤立する。遠浅の海上では船もだめ。くわばら、くわばらである。
次の和歌もまんざら仰山ではなさそうだ。

 『山は裂け 海はあせなむ世なりとも 君にふた心 わがあらめやも』 源実朝(金槐和歌集) 鎌倉国宝館前には震災で倒れた石鳥居の円柱を利用して和歌が刻んで建っている。

 註 この年、建暦3(1213)年5月21日昼ごろ鎌倉大地震(吾妻鏡)