2012年(平成24年)3月20日号

No.533

銀座一丁目新聞

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花ある風景(449)

 

並木 徹

 

 映画「戦火の馬」を見て
 

 源平の昔から馬と兵は切っても切れない縁であった。軍人が守るべき五箇条を定めた軍人勅諭にも「兵馬の権」と言う言葉が二か所も出てくる。兵器の進歩とともに軍馬が姿を消し、日本で騎兵科がなくなり機甲に変わるのは昭和15年である。それほど馬は軍事上大切なものであった。昭和14年に「愛馬新軍歌」(作詞・久保井信夫・作曲・新城正一)がヒットした。挽馬が主人公。出てくるのは野砲兵や輜重兵である。「弾丸の雨降る濁流を/お前、頼りに乗り切って/つとめ果たした、あのときは/泣いて秣を食わしたぞ」(3番)。兵隊と馬が心通わしているのが良くわかるリズミカルな歌であった。大東亜戦争末期、硫黄島の総指揮官として戦死された栗林忠道中将が陸軍省馬政課長時代に企画して一般から募集したものである。

 第一次大戦でイギリスが動員した軍馬は100万頭に上る。帰還した軍馬はわずか6万2千頭に過ぎない。軍馬は戦場では単なる運搬の道具だけでなく、兵隊たちにとって深く大切な存在であった。スティープン・スピルパーグク監督の映画『戦火の馬』を見て何度も泣かされた(3月13日有楽町・ピカデリ―2)。第一次世界大戦の際、少年アルバートが愛情込めて飼育したジョーイ号はイギリス軍の軍馬として買い上げられ、戦場へかり出される。ジョーイ号の行く手には不思議と馬好きで親切な人たちが現れる。

 別れを惜しむアルバートにイギリスの将校(のちに戦死)は「ジョーイを大切にし、戦争が終わったら君に返すよ」という。ジョーイ号のスケッチまで送ってくれる。イギリスの騎兵隊の奇襲が失敗してジョーイ号も同僚の将校の乗馬トップソン号も捕虜となる。これを世話するのがドイツの若い少年兵の兄弟。弟だけが前線に行くことになって兄はジョーイ号に乗り、弟をトップソン号に乗せて脱走を図るが途中で発見され兄弟は処刑されてしまう。次に残された両馬は両親を亡くしたフランスの少女とその祖父に育てられる。それもつかの間ドイツ軍に再び捕まる。過酷な砲車引きにトップソン号は死んでしまう。このまままではジョーイ号も倒れてしまうというので逃がされる。砲弾が飛び交う中をジョーイ号は前を向いてひたすら走り続ける。ついに連合軍とドイツ軍が対峙する鉄条網の中で傷を負い倒れて動けなくなる。それをイギリス軍兵士とドイツ軍兵士が共同作業で有刺鉄線を切りジョーイ号を助ける。最後にどちらが引き取るかをコインで決める。ドイツ兵は言う。「僕のカイザーが見上げているけどあまり嬉しくなさそうだ」とイギリス兵に勝を譲る。ジョーイ号には吉凶禍福が渦巻き、観客をどきどきさせる。

 病院に運ばれたジョーイは破傷風で殺すほかなくなる。その病院には志願してきたアルバートが敵の塹壕の中で毒ガス弾が爆発、目をやられて入院中であった。馬が連れてこられたというのでベットの上で飼育時に使っていた「ホー、ホー」と言う口笛を吹いたところ、その都度ジョーイが頭を挙げるので殺すことが出来ない。軍医に目に包帯を巻いたアルバートが馬の特徴、4本の足が白く、額に菱型の白い斑があると見事に言い当てる。「私が育てた馬です」と言う言葉に軍医は「できることはやる」と約束する。回復したジョーイ号に待っていたのは戦後の後始末である軍馬の払い下げ。これはセリで決まる。戦友達のカンパでお金が集まったもののセリ落としたのは意外にも一時ジョーイ号を世話したフランスの少女の祖父であった。その祖父もジョーイ号とアルバートの愛情物語を聞いて無償で譲る。アルバートはジョーイ号に乗って夕日に照らされながら緑の丘陵地帯にある故郷へ凱旋する。父親は酒飲みながらポア戦争の勇者、当時の大隊旗がジョーイ号のお守りになった。母親は「憎さは増えるばかりだが愛情は減りもしないよ」というしんの強い女性。アルバートを温かく見守ってきた。

 戦いすんで日は暮れて、人は語らず征馬は帰える。緑の故郷に夕日が映える。そんな映画の最後のシーンがいつまでも心に残った