2012年(平成24年)3月20日号

No.533

銀座一丁目新聞

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茶説

「児童移民」を告発した社会福祉士

 

 牧念人 悠々

 映画は時には頭にがーンと一発食らわせる衝撃を与える。ジム・ローチ監督のデビュー作品「オレンジと太陽」を見てその感じを持った(4月14日より東京神田神保町・岩波ホールで上映)。19世紀から1970年代までイギリスは施設に預けられていた子供達を福祉の名のもとにオーストラリアに「児童移民」を行っていた。その数十三万人。その事実を一人の女性福祉士が調べて告発した実話である。その名はマーガレット・ハンフリーズという。イギリスの中部の都市ノッティンガム(人口30万人)に住む。夫と二人の子供を持つ主婦でもある。

 オーストラリアでは、アジアからの防護のために白人の入植を政策とし、児童移民が促進された。これには意外にも日本が大きく関係している。大東亜戦争の1942年2月、シンガポールが陥落、多くのオーストラリア兵が捕虜となった。さらに2月19日、日本海軍機188機ガポートダーウィンを奇襲、駆逐艦など艦艇11隻、航空機23機が撃墜破された。戦争が終わってもこの記憶が大きく影響したという。この映画の原作「からのゆりかご―大英帝国の迷い子たち」著者マーガレット・ハンフリーズ・訳都留信夫・都留敬子・日本図書刊行会発行)には次のような記述がある「日本のシンガポール占領とダーウィン爆撃がオーストラリアにかくも広大な大陸を守るだけの方策も人口もないないという恐怖感を募らせてしまったのだ、入植がこの問題の解答であった」。

 事の発端は1986年、マーガレットは養子に出された人たちをサポートするトライアングル会を主催していたが、ある夜、一人の女性が「自分が誰なのか知りたい」と話しかけてきた。彼女はノッティンガムの児童養護施設にいた4歳の時に船でオーストラリアに数百人の子供達と一緒に送られたという。信じられない話であった。調べているうちに不思議な話が出てくる。初めに相談に来た女性の母親は死んだと聞かされていたのに実際は生きていた。しかもその母親は娘がイギリスの養父母に貰われていったと信じていた。オーストラリアに行ったなどは全く知らなかった。

 子供達の移民先で待っていたのは「毎日、太陽が輝き、毎朝、オレンジをもいで食べる」楽園ではなく、過酷な労働や虐待であった。時には性的虐待もあった。その場所はキリスト教会が運営している孤児院であった。彼女の活動がマスコミに報道されると、その調査を非難したり脅迫電話を懸けたりするようになる。家を襲う狂信的な男まで出てきた。マーガレットも精神的に参る。医者の診断は「心的外傷後ストレス障害」。そんなマーガレットを救ったのは彼女条の献身的な努力で再会を果たし、喜ぶ母と娘の歓びの声であった。初めマーガレットに心を開かなかった孤児院育ちの若者と一緒に孤児院を訪れる。彼女は厳しい神父達の視線にひるむが、ここで受けた痛みを語るみんなの顔を思い出しながら対決する。彼女のストレス障害は、多くの人の悩みを聞き、それに同化して起きた病気である。それを克服するにはその病気の根源、この孤児院に来る必要があった。同行した若者が言う。「8歳を最後に俺は泣き方を忘れた。だけど、あんたは俺たちの涙を感じ取ってくれる。おれたちの味方だ。あんたは最高のプレゼントだ」。

 弱者,虐待された人々の涙を感じ取れる人がこの世に何人存在するのであろうか・・・・。なおイギリス政府は2010年2月、オーストラリア政府は2009年11月それぞれ「児童移民」について正式に元児童移民とその家族に対して謝罪している。