2010年(平成23年)4月1日号

No.499

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(413)

眠るがごとき大往生


 スポニチ・初代・社長・宮本義雄さんの夫人・春江さんが亡くなった(3月20日・享年95歳)。世話好きであった。ご主人と共に社員の仲人を務めたのは数知れない。通夜にも(3月23日世田谷区豪徳寺)お世話になった10人ほどスポニチOBが参列した。春江さんは胃ガンを患って病院に入院中であった。その日の午後3時過ぎ家族と地震の話をしていたあと、眠るように息を引き取ったという。

 春江さんとは私がスポニチの社長時代3回ほどゴルフをした。飛距離はそれほどでなかったが思いっきりの良いスイングをされた。話していて気持ちの良い方であった。東海大学を出た孫娘がスポニチに入社した時は大変喜ばれた。孫娘は今なお在職中である。

 ご主人の宮本社長(昭和31年3月、編集長、編集局長を経て昭和43年から社長)はスポニチの発展の基礎を築いた功労者である。もとは毎日新聞整理部記者であった。毎日時代から人は名前を言わず「やっか」と呼んだ。茨城の方言で「やろう」という意味で、行動的な宮本さんは何事にもすぐ「やっか」と叫ぶのを常とした。今も語り草になっているのが評論家・小西得郎を報知新聞から引き抜いた話である。部下の話から小西さんがスポニチに必要な人材であると感じた宮本さんは昭和32年3月から7ヶ月間、雨が降る日も風が吹く日も毎朝、杉並区永福町の小西邸に赴き、熱心に口説いた。頑固な小西さんもその熱心さにほだされた(昭和33年元旦からスポニチで執筆)。整理部出身だけに見出しの付方は上手かった。あらかじめ思いついた見出しを自分の手帳にメモしておく熱心さであった。このころの宮本社長について夫人の春江さんは次のように語っている。「戦争の最もひどい時、四国の豊浜に主人が満州から赴任しました(昭和18年7月、応召、士官候補生として予備士官学校に進み、満州で訓練ののち、20年春少尉に任官、幹部候補生の教官として日本に帰国)。幼児を2人抱え、ほんとうに泥水をすすりながらたどり着きました。士官宿舎に落ち着きましたが主人は忙しくて帰る日は少なかったですね。日本刀を腰に長靴をはいて、とてもはりきっておりましてこの戦争で死ぬんだという決意がありりとわかりました。戦後、家ではとても優しい夫でありました。スポニチに行きましてから時々きりっとした陸軍士官の表情になることがあり、びっくりしました」(平成6年8月10日号スポニチ社報より)

 藤本快哉君の話では正月には販売部の者が7,8人で年始に行くのが恒例で夫人がお酒をついで回り激励したという。宮本社長と郷里を同じくする小西良太郎君は家族同様のつきあいであった。高校を出るとスポニチの雑用係に採用されてこき使われた(新聞社では“子供さん”と言った)。歌がうまいと言うので歌謡学校まで通わせた。小西君はその後、編集局長、役員となった。いまは俳優・音楽プロデューサーである。明治座でのお芝居『天空の夢』に出演中(3月27日千秋楽)であるが、この日は地震のため休演で通夜に駆けつけた。彼に私の作った詩『孫から見たおじいさん』をみせて曲作りを頼んだ。これも春江さんの導きかもしれない。

 宮本社長が亡くなったのは昭和46年2月、56歳の時である。夫人春江さんはそれから30年、子供と孫たちの成長を見守りながら生きてこられた。仏前で焼香をしながら私は亡父のあとをついで新聞記者となった孫娘を春江さんは一番可愛いかったのではないかと思った。


(柳 路夫)