2010年(平成22年)8月20日号

No.477

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追悼録(391)

牛島満大将の辞世の歌


 沖縄戦で自決した第32軍司令官・牛島満中将(陸士20期・戦死後大将となる)は辞世の歌を残す。時に昭和20年6月23日未明である。56歳であった。

 「秋待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春によみがへらなむ」

 牛島中将は前任の陸軍士官学校の校長であった。昭和19年10月14日、埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校から歩兵科の士官候補生とした神奈川県座間にあった陸軍士官学校に入校した際、すでに牛島校長はその年の8月8日、沖縄の第32軍軍司令官に転出されていた。沖縄を訪れるたびに一緒に自決した長勇参謀長(陸士28期)と祀る摩文仁の丘の碑にお参りした。

 昭和のはじめ古代研究のために沖縄に訪れた事のある詩人・折口信夫はラジオ放送でこの辞世の歌を聴いて感動する。それは「皇国の春によみがへらなむ」の微妙な感情を正しく伝えている語法による。「・・・よみがへりなむ」ではない。「来るべき御代の盛りには、今この島に朽ちてゆくわが身の志、継承せられ栄えて行くであろう」と言う意味ではない。「よみがえらなむ」とある以上よみがえってくれ」「よみがってくれるように・・・」といふ義である。わが身の志を継承してゆくもののあることを祈っていることになる。その祈りは相手に向かってあからさまにいふ祈りではなくてひそかに、ひとり言のようにいう祈りである。心細いだけにその切実な感情ひときは深いものがあるという(桶谷秀昭著「昭和精神史・戦後編」文春文庫)。

 牛島大将は鹿児島出身、陸士恩賜、日本陸軍最後の大将(134人目)である。最初の大将が西郷隆盛である。牛島大将は「小西郷」と言われ、すべてを部下に任せた。ともに最後は自決するのは暦史の運命と言うほかない。少佐の時、鹿児島1中の配属将校になっている。配属将校の経歴のあるものが大将になったのは藤江恵輔大将(陸士18期。昭和4年、京都大学で配属将校)の二人だけである。陸大は28期で同期生の下村定大将と一緒で下村大将が首席であった。牛島大将は陸大の教室でよく瞑想していたようである。教官から質問されると「退却します」と答えるのを常としたという。経歴を見ると教育畑を務めておられる。陸軍予科士官学校校長兼戸山学校校長(昭和14年3月ー14年12月),公主嶺満州士官学校校長(昭和16年10月ー昭和17年3月)陸軍士官学校校長(昭和17年4月―昭和19年8月)である。武将に歌の心得あるは昔からである。11世紀末、衣川の合戦で源義家が逃げ行く安倍貞任に「衣の立てはほころびにけり」と詠みかけると敗軍の将は「年を経しいとのみだれの苦しさに」と上の句をつけたという逸話がある。

 ここで思い出すのが沖縄方面海軍部隊の最高指揮官であった沖縄方面根拠地隊司令官、大田実少将(海兵41期)である。日本海軍にあっては陸線の最高権威者であった。沖縄県民の献身的な作戦協力に対して玉砕する1週間前に「県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」と発信した電文は心にしみる。

 動と静、剛と柔である。大田少将の電文に比べれば牛島大将の辞世の歌はそれほど有名ではない。ひとり言のような祈りであったからやむを得ないにしてもその祈りは継承していかねばならない。牛島大将は後輩たちが日本を再生してくれるようにひそやかに願った。果して日本の青草はよみがえったのであろうか・・・・そいう意味では牛島大将の辞世の歌の問いは深い。

(柳 路夫)