2009年(平成21年)11月1日号

No.448

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安全地帯(265)

信濃 太郎

軍縮と日米戦争(大正精神史・国防・軍縮3)
 

武者小路實篤は大正13年(1924年)7月号の「文芸春秋」に「日米戦争まさかないと思うが」の一文を書く。トルストイに傾倒した作家の予想は17年後に見事に当たる。實篤さんは心配する。「日米戦争なぞと云うことも随分前から噂がたっていたが今の勢ひでゆくとやりかねないと思ふ。常識的に考えても,亦深く考えてもとてもやれないことが非常識家が多く馬鹿者が多いと平気でやってのける。その渦巻きに巻き込まれたものはたまらない」
 日本にはその非常識家と馬鹿者が昭和の御世に多かったということであろうか。
 實篤さんは続ける。「米国が理不尽戦争をしてきたら又別であるが、さもない限りうんとおちついて遠大な心をもってこのさい喧嘩を買ふのは間違いと思ふ。心配が早すぎると思ふが、おそすぎるよりはいい」
 第一次大戦で大国にのし上がった米国は“理不尽”であった。もともとこの国は「一国が海上に勢力を持たなければ、その国は発展しない」というアルフレッド・セイヤー・マハンの「海上権力史論」(1894年刊)を信奉する。マハン大佐は海軍兵学校を2番で卒業、いくつかの軍艦の艦長を経た後、海軍大学校の教官,校長を務める。海軍大学校の講義録が名著となった。その最大の要点は「海上を制圧する軍事力が、古往今来、文明諸国の運命を決定する」ことである。少なくとも身の丈にあった軍事力を持つことが国を守る備えであることは間違いない。
 アメリカの国務長官ヘイが《門戸開放・機会均等》と唱えだしたのは明治33年(1900年)である。日露戦争後、日本の米国移民問題がこじれる。日本人の米国移住は明治30年ころは年に3600人、それが明治33年には1万2千人に及ぶ。大正2年に土地所有の禁止、大正9年には借地権奪取、写真結婚の禁止、大正13年には移民法が制定され、日本人は帰化不能人種に指定される。人種差別も甚だしい。
 大正10年アメリカはワシントン会議を招集する。狙いは米・英・日の建艦競争を終わらせ、自国の財政負担を減らすことであった。もちろんアジアでの日本の勢力を抑え込むためでもあった。ここで「戦艦」の保有率が米・英各5、日本3、仏、伊各1・67と決められた。この会議で山東半島の旧ドイツ権益の中国返還が決まった。日本、米国、英国、仏の間で紛争解決のための四ヵ条約が結ばれた。1902年以来の日英同盟も廃止された。
 この条約は太平洋上の各国の領土に関する現状維持の尊重、紛争を共同で処理することを定めたものである。ヘンリー・A・キッシンジャー著『外交』(上・岡崎久彦監訳・日経新聞社刊)に面白い記述がある。もし調印した四ヵ国のいずれかが条項を無視したらその国に対し他国は行動を取るだろうか?「四ヵ国条約には参戦のコミットメントは含まれていない。軍事力についても、同盟についても、防衛に参加する法的、道義的義務についても何らコミットしているわけではない」。ウォーレンG・ハーディング大統領(29代)は、この条約について懐疑的なアメリカ上院にこう説明したというのである。つまりこの条約は条約を作ったということだけに意味があった。このような条約もあるということを知るべきである。同時にアメリカの物の考え方を学ぶべきかもしれない。
 ワシントン会議の全権は加藤友三郎大将(海兵7期・首相・海相・元帥)、専門員は委員長が加藤寛治中将(海兵18期・首席・大将),副長が山梨勝之進大佐(海兵25期・のち大将)であった。山梨大将は「日本の取り組んだ相手がアメリカであり、軍人にとってはこの軍縮は弾丸を撃たない戦争であった」と述べている(山梨勝之進著「戦史に見るリーダーシップの条件」(上・毎日新聞刊)。この本の中で海軍の軍備と国の財政について触れている。日清戦争前における海軍の経費は1千万円以下であり、国費との割合は1割から1割4分の間であった。日露戦争の直前の明治33年には国費との割合は1割5分になった。大正9年には3割2分となる。これで明治42年に策定した戦艦8隻、巡洋艦8隻の八八艦隊が完成する。予算総額は7億6千万円であった。
 加藤寛治大将は日露戦争には戦艦「三笠」の砲術長、第一次世界大戦には「伊吹」の艦長として参戦、英海軍と協力する。日米の主力艦保有比率をあくまで対米7割を主張、会議脱退も辞せずと強硬な態度を示した。この軍備に危機感を持ち加藤大将は大正15年12月連合艦隊司令官に就任するや、アメリカに対する劣勢を猛訓練で補う方針を示し、実戦さながらの訓練を実施した。「軍人の本懐は政治にあらず」というのが加藤寛治大将の信念であった。大東亜戦争が始まる2年前の昭和14年4月9日、70歳でこの世を去った。