2009年(平成21年)7月10日号

No.437

銀座一丁目新聞

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追悼録(353)

「海軍特年兵之碑」に詣でる

 かねてから行きたいと思っていた「海軍特年兵之碑」に詣でる(7月3日)。東京・原宿・東郷神社の鳥居に入る手前にある。御影石に「海軍特年兵之碑」(昭和46年5月16日建立・海軍特年兵生存者一同・建立委員長小塙精春)とある。碑銘の揮毫は海軍大将野村直邦(海兵35期・昭和19年7月海軍大臣)である。
 碑面に香淳皇后様のお歌が彫られてある。

 「やすらかに ねむれとぞ思う 君のため
  いのちささげる ますらおのとも」

 海軍特別年少兵は大東亜戦争で3千数百名が戦死している。この制度は昭和16年に創設され14歳から16歳までの少年を海軍練習兵として採用、第1期生は昭和17年9月、3200名、第2期生は昭和18年7月4000名、第3期生が昭和19年5月、第4期生が昭和20年5月にそれぞれ5000名が募集された。合計1万7千2百名を数える。就業期間は1年間、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4鎮守府に配属され、水兵、機関、整備、工作、看護、主計の各科で専修を受けた。
 海軍特別年少兵の存在を知ったのは映画「海軍特別年少兵」(東宝映画・監督今井正・1972年製作)である。昭和47年夏ごろで私は論説委員であった。題にひかれて何気なくみた。その映画の中に夜間演習で帯剣をなくした年少兵が捜しても見つからず思いあぐねて自殺してしまうシーンが出てくる。私は涙が出てきて止まらなかった。実は私も同じ体験をしている。陸士59期の歩兵科の士官補生であった私は昭和20年8月、西富士で卒業前の最後の野営演習に参加した。8月13日の夜間演習は「梃身切り込み奇襲」であった。富士の樹海をジャングルに見立て夜、敵陣に夜襲をかける演習である。富士の樹海は迷子になったら死を覚悟せよといわれるぐらい深い。小隊長の私は指揮刀を持って小隊を引き連れた樹海に入り敵陣に切り込み奇襲をかけた。そこまでよかった。終わって整列すると指揮刀のさやだけあって刀身がないのに気がついた。武士の魂を失くすと何たることか、頭は真っ白になった。区隊長にどやされた。翌日の14日朝から区隊の同期生と探しに行ったが見つからなかった。夜と昼とでは樹海の様子がまったく違う。途方に暮れた。
 翌15日も探しに行こうとしたところ、12時に重大放送があるから待機せよという。終戦の放送であった。敗戦を迎えた私の心境は複雑であった。常に死を覚悟して錬武に励んできたのだ。同期生はみんな嗚咽している。事態は指揮刀探しどころではなくなった。私は不謹慎にも「これで重営倉(処罰)はなくなった」と、ほっとした。時に19歳であった。私は映画「海軍特別年少兵」の内容を年少兵の自殺しか覚えていない。それだけ帯剣・指揮刀の紛失が重大事だと頭にこびりついていたからであろう。最近そのあらすじを知った。映画の幕あけは栗林忠道中将(陸士26期・陸大恩賜)が軍司令官を務め玉砕した硫黄島の激戦からである。2万9百33人の守備隊の中に市丸利之助少将(海兵41期)率いる海軍部隊7千3百47人がいる。この海軍部隊に海軍特別年少兵3千8百名が含まれている。彼らは昭和18年7月武山海兵団(横須賀鎮守府)に入った。年齢14歳。海兵団の生活はきびしいものであった。映画では「愛の教育」を説く中尉と「力の教育」を実践する上曹が登場する。年少兵の橋本治と宮本平太は肉親との面会も拒否して上曹を相手に銃剣術に励む。橋本の姉ぎんは娼婦、宮本の父は社会主義者であった。昭和19年夜間演習で林拓二が帯剣(私たちはゴボウ剣といった)を失う。みんなで探したが見つからなかった。このときの林年少兵の気持ちは痛いようにわかる。私は軍曹の階級であった。上曹の努力で帯剣が見つかった時にはすでに林は自殺した後であった。帯剣一本で兵を死に追いやる軍隊に絶望して上曹は志願して前線へ行く。そのころ脱走兵と駆け落ちしていたぎんが逮捕される。社会の底辺で生きていたふたりが初めて心が触れ合い新しい生活を目指そうとしたところであった。昭和19年3月30日、年少兵たちに硫黄島へ出動の命令が下った。米軍が硫黄島へ上陸したのは昭和20年2月19日である。米海兵隊第3、第4、第5師団7万5千百45人、75ミリ以上の火砲168門、戦車150台,攻略部隊用の艦船495隻。支援艦艇として戦艦7隻、護衛空母11隻などが加わった。
 守備隊が玉砕したのは3月26日である。硫黄島の米軍の損害は海兵3個師団だけで死傷2万5千8百51人。日本側の戦死者は1万9千9百人。大東亜戦争で米軍の損害が日本軍を大幅に上まわった稀有の戦例である。この映画の脚本家は鈴木尚之で、14歳から16歳の少年たちが祖国のためと信じ、疑うこともなくまた疑うことも許されずに死んでいったことに、愛国心とは何かを痛烈に問い掛けており、反戦意識がにじみ出た作品と当時の批評家は書く。
 平成6年2月、はじめて硫黄島を訪れた天皇陛下はこう歌われた。
 「精魂込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」
 それより49年前、栗林忠道中将は
 「国のため重き務め果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」と詠んでいる。
 この日、JR原宿駅を下車して東郷神社へ行く竹下通りは若者でにぎわい、東郷神社も結婚式が執り行われていた。「海軍特年兵之碑」の前にたたずむは私一人であった。
 碑の裏面には特年平の歌が刻まれていた。

  「時代はどんなに
   変わっても
   胸に流れる魂は
   いついつまでも
   咲き誇る
   真実の平和祈りつつ
   燃えた命よ
   ああ特年兵」
 

(柳 路夫)