2009年(平成21年)7月10日号

No.437

銀座一丁目新聞

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〔連載小説〕

 

VIVA 70歳!

            さいとう きたみ著

 

第五章 (つづき) 

春介:その5

 

学者であった父は牧師の息子であった。ユーモラスな面が外に溢れていたが、本当は真面目な人であったと思う。休日は終日書斎にこもって勉強していた。一生勉強と縁が切れなかった人だ。その父への思い出は数限りなくあるが、その一つ、今も春介の生き方に強く影響を与え続けている体験がある。ある日めずらしく散歩に誘われ父と二人並んで歩いていた。
「君はお父さんのように学者になることはないと思う。」
ポツリと父がそう言う。春介は非難でもされるのかとやや緊張して待ち構える。
「君は学者になるには頭がよすぎる。」
初め何のことか理解できなかった。
「君のお兄さんたちは頭がよくないからあのつまらない学校の勉強に嫌気がささず、優等生になっている。」
そして続ける。
「優等生になるということは創造性が欠落するということだ。」
ジョークなのかと思い、父の顔を仰ぎ見ると真剣な顔であったので春介も唾を飲み込み謹聴する。
「中国の古い言葉にもある。“大巧は拙なるが如し、大智は愚なるが如し”だ。毎日毎日勉強をしたって独りの人間の記憶力などたかが知れている。人間は年をとればとるほど、何かを記憶するのではなく、何をどう忘れるかが勝負になる。君はそれが出来る子だと思う。幸せになれる可能性が君にはある。」
そのようなことを言った。中国の古語については家に帰ってから紙に書いてもらった。高校時代に猛勉強して東大に入るということを早々にあきらめたのは、この時の父の言葉を自分勝手に利用したのだと思う。が、70歳になってつくずく思うのはどのようにして知っていることを忘れるのかという能力が老人の活性の維持にいかに重要かということだ。
日本に帰るとともに春介は個人事務所を立ち上げた。在学中は奨学金も得ていたが、同時に様ざまな仕事をし、生活費も親の援助も受けないでしのいでいた。
しかし帰国時に大金を手にしていた訳ではないので、妻の桜子に多少まとまった金を借りることにした。返済計画は世間並みの金利も併記し、正式な借用書として残した。オフィスは都心の中級のホテルに定めた。一般の貸しビルだと敷金、権利金が必要だったし、ホテルだと多少月づきの出費は割り高になるが、電話は勿論、什器、備品などもある程度備えられている。ロビーやティールームなどがそのまま応接室として使えたし、駐車場もある。
そのホテルで同じようにオフィスを開いているT氏と出会った。T氏はもと、大新聞社の政治部記者で、Kもと総理に請われ秘書官となりK総理の退任後はその弟のS代議士の秘書官に移り、S氏が党の幹事長に就任した直後、秘書を辞め、独立していた。T氏は後に真偽のほどは分からぬがS氏夫人の恋人だったと週刊誌にスッパぬかれたりした人でダンディーな人だった。春介に好感を持ってくれていて何やかや親切にしてくれていた。ある日、T氏が笑顔とともに春介にとってはいささかと戸惑う提言をしてきた。彼のつかえていたS氏が総理大臣になっていたのだが、彼のPRをやってみないかと言うのだ。大学でパブリック・リレーションズを専攻していたので、春介は業務の一部にPRを加えていた。当時 日本ではPRは宣伝の一部ぐらいの認識しかなく本来のPRを主業とする企業はほとんどなかった。春介がPRを専攻したのはそういう日本において未成熟な分野の先取りが動機の中にはあった。アメリカにおいて大統領のPRを担当するPRエージェントは一流であえることの証明であり、今回の話が魅力的であろうことは明白だったが、春介は政治について全くというほど知識もなく、むしろ無関心であったからすぐには返答ができなかった。
「十一代目団十郎が急死したことを知っている?」
T氏のその発言がまたまた春介を混乱させた。S首相が政界の団十郎と呼ばれていることはうすうす知っていたが、T氏の発言の真意が分からなかった。団十郎の長男の新之助はまだ高校生で市川宗家を率いて行くのは大難事なのだという。周囲で支援していかなければならない、T氏はそうも言う。政治だけでなく、歌舞伎についても知識がたりない春介はますます分からなくなっていた。
つまり、T氏は市川宗家をS首相に応援させ、それを機会に彼のPRを引き受けよう、そういう作戦のようだった。
毎月、17日に新橋のおおきな料亭でS総理を囲む財界人の会があるという。持ち回りではあるが、今は北炭のH社長と東京ガスの社長がその会の幹事だという。S総理の次男はA社長の娘と結婚していてその仲人をつとめたのがH社長だという。T氏はこのプランはすでに両財界人には了承してもらっているという。
「絶好の機会だよ。この宴会に新之助を招ぶ。松のみどりか何かを一舞させて、その直後に総理に市川宗家の苦衷を訴えさせる。並いる財界人の前で総理もノーとは言えまい。」
T氏は嬉しそうに続ける。
春介はさしたる確信もないままにT氏のシナリオのもと、T氏の演出に従い、動き出したのだった。新之助と会う。新橋の料亭に出かける。H社長、A社長にも会う。大略の枠組が出来たころ、総理夫人にもその報告に出向いた。
そして当日、宴会が始まり、一段落したところで新之介を登場させ舞が終わるやいなやするすると総理の前にすすませ、ピタリと手をつき口上を述べさせる。
若いとはいえ、さすがに役者の子、春介の書いた台本どうりにことが進む。酒はほとんどたしなまないが、健啖家の総理とは対象的にろくに料理には手をつけず酒ばかりあおっていたT幹事長が総理の隣席にいる。新之助の口上に静かに頷く総理の隣利でこのT幹事長が突然涙を流し
「いやいやあっぱれ、見上げたものだ、頑張れよ。」
後に総理になる同氏特有のダミ声で叫ぶ。これはT氏や春介のシナリオにもなかったが、これが会場のムードを一変させた。そこですかさずH社長が
「どうです、我々微力ながら梨園の伝統の維持のために貢献しようじゃありませんか。」
という発言で、シャンシャン、満座の拍手の中、新之介が退場、仕掛けは大成功であった。T氏とともにその夜祝杯をあげたのは当然であった。もっとも、後日、大女将に会ったとき、こっぴどくしかられた。料亭は芸者が舞うところ、いかに若かろうと市川宗家の御曹司を舞わせるとは何事かというものだった。この大女将は足腰が利かぬようになってからも入り口に敷いた厚い座布団の上で全ての客に挨拶をしていた女丈夫であった。春介は彼女の迫力に正直恐れ入ったものだ。
この後、“団友会”という名のもとに現職総理を筆頭に大財界人たちを差出人とする請求書が全一部上場会社に送付され決して小さな金額ではないにもかかわらずおおくの企業から送金があった。それらは団十郎未亡人と新之介に渡され松竹の重役がお礼に来たほどだった。伝統ある歌舞伎役者とはいえ一種の芸能人、現役の総理がその後援会の代表者であったことは異例なことであったろう。こうして“団友会”の経過報告を理由にちょくちょく総理の私邸や公邸を訪れ、首席秘書官などとも顔見知りとなり、T氏がどういう裏の手を使ったものか、春介は総理のPR係りとなっていた。総理のPRと言っても何もかも任された訳ではなく逆に何もかもやろうとすればすぐさま厚い壁につきあたり、予測以上に難しいものであった。総理官邸には官邸記者クラブというものが強力な存在としてあり、型どおりの正式記者発表以外の情報は原則としては流してはならないという決まりがあった。当時急速にマスメディアとして成長してきたテレビや出版社系の週刊誌などはこの記者クラブに入れてもらえなかったから、事実上蚊帳の外であった。アメリカの大統領がすでにテレビを巧みに利用している状況から見ればまことに旧態依然たる古風なものであった。やっと民放各社との話しあいで総理アワーという各局もち周りの1時間番組が実施できることになったが、これが期待に反し不人気で視聴率は1%内外だからだんだん良い時間帯から深夜とか早朝の時間に追いやられる。春介が別に責任者というわけではなかったが時に応じて総理のお相手として作家やタレントを持って来る案を出していたりしたので何となく肩身が狭くなってくる。だからT氏も目にみえた効果が出ないことに気を病む。月刊誌のグラビアで総理夫妻が手をつないで散策する軽井沢での1日を掲載してもらったりしたが、そんなことで人気がでる訳のものではない。赤い羽根募金の折、街頭に立つてもらったり著名な海外音楽家のコンサートに夫妻で参加してもらったりしてはみたが、その度に警備する側との間でひともんちゃくあったり、どうも春介の仕事は地に足がつかぬもどかしさがあった。春介個人と総理が直接会う機会が極めて少ないということも仕事を進めるにあたって支障となっている。春介は許される範囲で総理個人と接することを心がけた。それにはおおかたの公務を終えて私邸に戻り就寝するまでのわずかな時間ぐらいしかなかった。総理は疲れて帰宅すると和室の茶の間に座り大量のミカンを食べる習慣があった。その時をねらって雑談風に話を引き出そうとするが、元来無口な上に分秒刻みのスケジュールに疲れ果てている時でもあるからご機嫌ははなはだ良くない。春介の質問に対し毎度のように一体お前は何者だと言わんばかりにおおきな目玉を見開き、すぐには返事もしてくれない。春介もさすがにまいった。そんなある日、宮中で観桜会だか観菊かいだかがあり、総理がご機嫌で帰ってきたことがあった。
めずらしく総理の方から口を開いてくれる。
「いや天皇陛下はやっぱりたいしたものだ。」
と言う。春介も嬉しそうに頷き次の言葉を待つ。
「皇居でまず高松の宮さんに会った。Sさんお元気ですか、お疲れでしょう、などと敬語まじりの挨拶だ。次に陛下にお目にかかるといきなり、S、元気か、と呼びつけなんだ。大したもんだ。さすがは陛下だ。」
春介にはしばらく何のことだか分からなかった。ああ、つまり天皇は天皇らしく時の総理でも呼びつけにすることが大切なのか、少なくともこの総理はそう思っているのだということがやっと分かった。ポカンとして相槌も打たない春介を見て、それまで機嫌のよかった総理は急に不愉快気な顔になり、寝ると言って席を立ってしまった。
当時、NHKの“紅白歌合戦”は圧倒的な高視聴率を誇るお化け番組であった。
春介はこれに目をつけた。11時45分に蛍の光のメロディーとともにこの国民的宴が終了し、雪の舞う寺などが映り、行く年来る年が始まる。オーバーに言えば国民のほとんどがこの時テレビの前でくつろいでいる。それも家族全員そろっているような状況だろう。春介は紅白歌合戦で総理が白組のキャプテンになり夫人は紅組のキャプテンになり最初は無邪気にこの娯楽番組に参加しており、そして次の雪の降る寺院の絵になる直前に総理夫妻がクローズアップされ、みなさん、と国民によびかける。主義主張を超えて同じ日本人同士としてこの国をより良きものにするためご一緒に手に手をとって歩みましょう、とか何か気の利いたことを言ってもらう。お酒のまわっている人やコタツの中でぬくぬくしている人たちも一瞬そのムードに同化してくれるのではないか。悪くないアイディアに思えたので早速NHKの番組担当者とこの番組に影響力を持つオエライさんたちに面会した。いろいろ抵抗があったが何とか基本的了解を得てそれをT氏に報告すると彼も大声でヒット、ヒットと喜んでくれた。早速、官邸に向かいそれを秘書官に報告し、久しぶりに良い気分で帰宅した。2,3日何の連絡もないので不審に思い官邸に秘書官を訪ねた。面会した彼の表情が硬い。悪い予感で彼の言うことに耳を傾ける。
「オレに川原乞食になれと言うのか。誰がそんなこと出来るか。あの軽々しい若者などもう要らない、辞めてもらえ。」
これが総理の反応だったと言う。こうして春介の短い総理PR係りは幕を下ろした。しかし川原乞食とはよくも言ったものだ。
それから何年たったであろうか。多分6月の末であったと思う。官邸から実に久しぶりに連絡があり、すぐ通産省に大臣を訪ねるようにと言う。T通産大臣はせわしない動作で彼の前に春介を座らせると口早に告げる。
「君、沖縄海洋博をやりなさい。総理のご命令だ。段取りはついているから明日から海洋博協会に行きなさい。以上、終わり。」
次期総理大臣であるT氏の発言はそれだけであった。博覧会が通産省の管轄であることは知っていたが何故今ころになって、しかも総理を退任する直前の時を選んでこんなことをしたのか、春介には理解できなかった。が、後にT氏の解説によるとこれが人事のSと呼ばれるゆえんでS氏の持ち味であるという。
 

(つづく)