2009年(平成21年)4月20日号

No.429

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追悼録(345)

中野泰雄さんを偲ぶ

 政治家・中野正剛の4男・中野泰雄亜細亜大学名誉教授が4月14日死去された。享年86歳であった。知り合いの長谷川真弓さんからメールでその死を知った(送信時間は4月15日13:57)。メールには「銀座一丁目新聞のフアンでいらした中野泰雄亜細亜大学名誉教授が昨夜、なくなられました。二時間ほど前、玄洋社の浅野館長(秀夫さん・大連2中15回生。私より2年先輩)と振東学社の太田誠さん(私が大連で寄宿していた当時の社監)の御子息さんは玄洋社の理事をなさっておられますよ、とお話を聞いたばかりの訃報でした。静かに余生を送っておられた中野教授にとって銀座一丁目新聞の茶説、追悼録などの記事は「父には嬉しいものだったでしょう」と御令嬢からメールをいただいたのは2日前でした」とあった。
 中野教授が本紙のフアンであったとは知らなかった。戦前、大連2中に在学中の寄宿舎であった振東学社で学社の総裁をしていた中野教授の父親中野正剛の謦咳に接し、2中では全校生徒が中野正剛の話を聞いた。しかも昭和18年10月31日東京・青山斎場で行われた中野正剛の葬儀にも参列している。ここで当時早稲田大学の学生であった泰雄さんと顔を合わせているはずである。この年の1月、朝日新聞に「戦時宰相論」を発表。東条英機首相の忌避にふれ、憲兵隊に捕まリ、釈放後自決した。陸軍予科士官学校に在学中、たまたま日曜外出で目黒の保証人宅を訪れて初めてその死を知り、そのまま青山斎場へ直行したのだった。中野家とはそんな因縁があった。泰雄さんは学徒出陣で昭和18年12月1日、東京・三軒茶屋の東部13部隊に入隊し、敗戦は千葉県酒酒井の宿営地の農家で迎えている。
 戦後は出版、大学の先生を務める。大事な仕事は父・政治家・中野正剛の事績を世に出すことであった。それが大著「政治家/中野正剛」上・下(新光閣書店刊・1971年11月・第1刷発行)である。(上)は第1部「星雲への道」から第4部「王道から覇道」=その1=、(下)は第4部「王道から覇道」=その2=から第6部「太平洋戦争」、明治、大正、昭和の激動の中を人間中野は政治家としていかに生きたかを綴られてある。今、大正精神史を勉強している私には非常に参考になる。中野正剛を描きながら大正時代を論じてみたいと考えている。泰雄さんとは戦後開かれた「雪斉会」(大連振東学社の創設者・漢学者)で大田誠さんから紹介された記憶があるが親しく話をしたことがない。考えてみれば残念なことであった。その著書「政治家・中野正剛」の志を伝えてゆけば何らかのお役に立つだろうと思う。心からご冥福をお祈りする。
 

(柳 路夫)