2009年(平成21年)4月20日号

No.429

銀座一丁目新聞

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花ある風景(344)

並木 徹

友人のホール・イン・ワンを祝す

 友人の野村和男君が苦節44年、ホール・イン・ワンを達成したというのでそのお祝いの会に出席した(4月19日・東京・世田谷・レストラン「ル・シャルダン」)集まったのは同期生16人と野村君の夫人充子さんら家族たちである。会の進行役を務めたのは野村君の息子の政弘と娘の泰世さんであった。和やかで楽しい会であった。
 野村君がゴルフを始めたのは昭和38年の春、運動神経抜群の清水廉君に勧められ、梶川和男君の主催した世田谷59会ゴルフコンペ(よみうりゴルフクラブ)に参加したのが初打ちであった。このときは三越でゴルフ道具を購入、包装紙もとかずそのままゴルフ場に出かけたという体たらくであった。
 ホール・イン・ワンを達成したのは昨年12月25日のクリスマスの日であった。場所は静岡県御殿場市の太平洋クラブウエストコース。12番コース(距離161ヤード)である。使用クラブはドライバーであった。彼はドライバーでと、恥ずかしがるがお見事である。「83歳の快擧」である。私などゴルフ歴40年になるがいまだに達成していない。もっとも中山毅彦君に言わせると「ホール・イン・ワンは心で打つものである。心正しからざれば入らない」という。中山君はOBをしたあと“ホール・イン・ワン”をしたことがあるそうだ。この日、野村君の前でプレーしていた泰世さんが当日の状況を説明したが12番コースは難しいところで「どうして入ったか謎です」と話した。その謎を西村博君が「この日はクリスマスです。神様のお手が球をカップへ導いたのです」とユーモアたっぷり解き明かす。
 清水君は「日本ホール・イン・ワン名鑑67”」を持参した。それによると昭和40年にホール・イン・ワンした者は1126名である。この中に清水君の名前と写真があった。昭和41年は1447名である。野村君は中学時代ピッチャーで「てき弾筒」の投擲距離は中隊で一番であった。ピッチャー出身のゴルファーはパターが上手であるといわれている。野村君がゴルフのうまい理由がよくわかった。20年前にホール・イン・ワンをした高尾正英君にその感想を聞くと「嬉しさ半分と心配半分であった」という。心配というのは御祝である。翌日から保険を30万円から50万に増額したという。私もそのような気持ちになるであろう。私は俳句2首を披露した。「春の夢ホールインワンいまだ出ず」「我れもなすホールインワン春の夢」。野村君は嬉しそうであった。無理もない。夫人も息子さんも娘さんも既にホール・イン・ワンを達成している。充子夫人は2度も果たしている。遅ればせながら仲間入りできたからである。最後に挨拶に立った野村君は家族そろってゴルフ場で大晦日の紅白歌合戦を聞いて元旦にゴルフを楽しんでいる話を披露した。和気あいあいとした家族の雰囲気が感じとられて羨ましく思った。