2009年(平成21年)2月20日号

No.423

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安全地帯(240)

信濃 太郎

一部軍人跋扈する(大正精神史・政治編A)

 当時の状況を新聞で見ると、東京日日新聞の社説(大正元年12月4日)は西園寺内閣総辞職と題して「頑強なる陸軍の要求は、口に国防の本義を云々するも、その実海軍に対する競争に基づき、閥族者流の権勢維持に努めんとするものにして、国家の財政を顧慮せず、国民の休戚を眼中に置かざる無謀の擧」と指摘した。そして「西園寺内閣の掲げている行財政整理や減税政策は国民の多くが望んでいるにもかかわらず”陸軍が陸軍以外の何ものをも認めず、直ちに欲するところを得、為さんとするは、その横暴は言語道断である”と決めつけた。内閣をこのように追いやったのは“武権者流と閥族元老の罪にして、大正治下に憲法政治尚ほ完全に行われず、一部武人の跋扈のため、国民与論の蹂躙せらるるは許しがたき行為”と言及、首相西園寺は潔く退陣して、野に下って政党(西園寺は政友会総裁)を指揮し、国民世論を背景に、軍閥や藩閥、あるいは官閥と戦って、その根源を断ち立憲政治の擁護に尽くすべきであると説いた(毎日新聞百年史より)。なるほどこのころより陸軍が力を持ち出したことがわかる。この社説が書かれた半年後の大正2年5月、陸軍士官学校を卒業する25期生741名の中に大東亜戦争開戦時の軍務局長武藤章と参謀本部作戦部長であった田中新一がいた。昭和11年広田内閣の組閣の際当時中佐であった武藤が組閣本部に乗り込んで吉田茂の外相候補に横やりを入れたのは有名な話である。ここで吉田が外相に就任していたら、戦後吉田が首相になることはなかったかも知れない。ちなみにアッツ島で玉砕した山崎保代(昭和18年5月)とピアク島(ニューギニア西北方)で戦死した歩兵222連隊長・葛目直幸(昭和19年7月)もこの期である
 西園寺公望が辞任後、後継内閣がなかなか決まらない。元老会議を11回にわたって開かれ、松方正義、山本権兵衛(海軍大将)平田東助、清浦圭吾、寺内正毅など名前が上るがみな断られてしまった。元老は山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎で大正天皇はこの人々を信頼された。これに西園寺公望が加わる。2ケ師団問題の背後に山県有朋がいた。日本陸軍の基礎を築き「国軍の父」であった。日清戦争には大軍司令官、日露戦争の時は参謀総長であった。内閣総理大臣も2度務め、政官界に隠然たる勢力を持っていた。「日本軍閥の祖」といわれた。山縣が上原に辞表を出すように仕向けたのである。時に山県は74才である。老害というほかないと断じたいが、当時は枢密院議長の職にあった山県に立ち向かう政治家はだれもいなかった。栄華を極めたものは何事も抑制的であらねばならいのにおごり高ぶった挙動に出がちである。軍閥台頭の序曲であった。大正元年12月5日は日本の政治史には一つのエポックであった。
 仕方なく桂太郎がひっぱり出された(大正元年12月21日)。もともと元老の要請で大正天皇のために宮内大臣兼務侍従長となった人である(大正元年8月13日)。宮内大臣就任からまだ4ケ月しかたっていなかった。その桂内閣が2ケ月ももたずあっけなく倒れた。  
 事の発端は桂首相が組閣にあたり策を弄しすぎたためである。先の西園寺内閣で増師問題がこじれた際、首相から上原陸相との調整を頼まれながら桂が断ったので内閣が総辞職を余儀なくされた。「これは桂の政治毒殺だ」とうわさされた。当然世論の強い反撃を受けるであろうことが予想された。そこで組閣にあたって桂は天皇に奏精して詔勅を拝受した。桂首相は斎藤実(大将・海兵6期)を留任させようとしたが斎藤は「あなたには海軍拡充に対する熱意が認められない」と留任を拒否した。さらに山本権兵衛に海相就任を要請したがこれもまた同じ理由で断られた。
 これには因縁がある。第二次桂内閣(明治41年7月から44年8月まで)の明治44年度予算編成にあたって海軍が八八艦隊建設の軍備拡張案を提出した。八八艦隊を説明すると、艦齢8年以内のものを第1期として戦艦八隻、巡洋艦八隻、9年から16年までが第二期、17年から24年までが第3期で、おのおの八隻、合計戦艦24隻、巡洋艦24隻となり八・八艦隊が三つになる。八八艦隊が成立するのは大正9年である。日露戦争では6・6艦隊(戦艦6隻、巡洋艦6隻)で戦った。明治33年の海軍の建造費の予算は国費との割合が1割5分であった。当時膨張財政を抑止するため桂首相は海軍の要求の一部だけを認めて大部分を陸軍の増師問題とともに第二次西園寺内閣に引き継いだ。斎藤海相はその解決のために西園寺内閣に留任したいきさつがあった。困り果てた桂首相は再び袞龍の袖にすがった。当時としても異例であったろう。今から見ても異例である。これまで首相2度就任、直前までは内大臣であった。そのおごりがそうさせたのであろう。
 「朕惟フニ卿久シク海軍軍政に局ニ庸レリ方今機務多端ナリ卿ニ俟ツコト特ニ多シ宜シク疾ニ力メテケンケンノ節ニ効スヘシ」との優詔を斎藤に賜り、海軍部内を抑えて斎藤を留任させた。やっと桂太郎内閣は船出した。