2008年(平成20年)11月20日号

No.414

銀座一丁目新聞

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追悼録(330)

山田洋次監督夫人よし恵さん逝く

 山田洋次監督夫人よし恵さんの告別式に参列した(11月12日・青山斎場)。なくなったのは11月8日、享年76歳であった。よし恵さんは7年前からガンに冒され闘病していた。山田夫妻とは山田洋次監督が大連1中で学んだと言うので大連2中の私と知り合い、会えば「あの映画のどこが良かった」とか「日本記者クラブの試写会は満員でしたよ」と話を交わした。よし恵さんとはよくパーティで会い、明るく声を掛けていただいた。
 葬儀はよし恵さんの遺志で簡略に行われた。好きなオペラの歌曲を流したあと母校の日本女子大の後藤祥子学長や岩波ホール総支配人高野悦子さんらが在りし日のよし恵さんを偲ぶ追悼の言葉を述べた。高野さんはよし恵さんが記録映画「元始、女性は太陽であった―平塚らいちょうの生涯」(羽田澄子監督)に制作委員会の副会長として物心両面で活躍された話をされた。よし恵さんは女性雑誌の研究家として知られ、平塚らいちょうは研究の対象であった。この記録映画の「制作発表会」(2000年2月10日・東京會舘)に私はたまたま出席していたが高野さん、羽田監督、よし恵さんらの顔がいやにまぶしく輝いていたのを思い出す。雑誌「青鞜」創刊号で平塚らいちょうは記した。「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い月である」
 よし恵さんの気持ちを今推し量ると、「甦る平塚らいちょうへの思い」を押さえかねていたのであろうと思う。「それは献身的でした」と高野さんが語るのは無理もない。しめりがちな会場の雰囲気をなごましたのは夫妻がなじみの近所の鮨やさんのざっくばらんな思い出話であった。「監督を監督 にしたのは奥さんでした。36年のおつきあいですがご夫妻は連れ添うように座り始めたのは15年ほど前からです。それまではバラバラにお座りになっていました。一度“映画監督はあなたの仕事でしょう”と大きな声を上げられたことがあります。鮨の最後には”かんぴょうまき”を注文されて終わりでした」
 最後に山田監督が挨拶した。「9月13日開かれた喜寿のお祝いの時。よし恵は”この人がぼけてきたら私が励ますから”とみんな笑わせました。病魔が彼女をむしばんでいたのを気がつかなかったのは返す返すも残念です」会場から嗚咽が漏れた。
 会葬者に配られた山田洋次監督のお礼の言葉は次のようであった。

「50年連れ添った妻を見送ることになるなどとは思っても見ないことでした。
 妻のよし恵をよく知り、彼女を愛し、慕ってくださった方々に、私の悲しみはおわかりいただけることと思います。
 私の妻に別れを告げるため、そして私と娘たちを慰めるために今日お集まりくださった皆様に、心からお礼を申し上げます。
有り難うございました」

(柳 路夫)