2008年(平成20年)9月20日号

No.408

銀座一丁目新聞

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追悼録(324)

阿久悠さんの記念館を建てたい

  阿久悠さんを偲ぶ会が開かれた(9月8日・紀尾井町ホテルニューオータニ)昨年8月1日、70歳でなくなって早1年たつ。出席者は600人を数えた。私は阿久悠さんから新聞を切り抜く大切さ、「時代の壁にピーンと跳ね返る言葉の使い方」などたくさんのことを教わった。挨拶にたった作曲家戸倉俊一さんは「詩は時代の飢餓を満たすものでなければいけない、と阿久悠さん が常に言っていた」と紹介した。「時代の壁に跳ね返る言葉」と同じ趣旨である。新聞もその記事が「時代の飢餓を満たすもの」であれば、読者の共感を得て大いに売れる。昨今、部数が落ちているのは大衆の胸に響く記事・言葉・詩がないからであるといっていい。
 阿久悠さんは毎朝ではなく、毎夜、新聞を数紙読み、心にとどめておくべき記事をすべて切り抜いた。円相場は必ず切り抜いたと聞いた。だから旅行にはスクラップを大きな鞄に入れていった。6821万枚のシングルを売り上げ、他の追随を許さないのはそれだけの理由がある。
 夫人の深田雄子さんは阿久悠さんが死ぬ10日前に”俺の仕事を何らかの形にして残してほしい”と遺言したことを明らかにした。阿久悠さんの公私ともに親しかった音楽プロデューサー小西良太郎さんは「具体的には記念館を建設してほしい」ということですと説明する。古賀政男記念館(東京)吉田正記念館(日立市)美空ひばり記念館(京都)などが既にあるのだから「阿久悠記念館」があってもおかしくない。問題は建設される場所と建物の中身である。阿久悠さんの業績を顕彰するだけでなくその志をさらに発展する「場」としなければなるまい。
 私などは石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が好きだから青森のどこかの市が名乗りを上げ「町おこし」の事業のひとつとして取り組んだらと考える。建物も斬新なものにする。ミニシアーターを設置し折に触れて「音楽祭」を開く。朝夕の時報も阿久悠さんの歌の調べを流す。いろいろアイデアは浮かぶ。
 帰りにいただいた袋の中に「暮しの手帳社」が出した阿久悠さんの「日本人らしいひと」の本があった。その中にこんな一節があった。
 「悲しい時には よくしゃべり
  淋しい時には 静かがいいと言い
  暑い時には きちんと襟を合せ
  寒い時には 薄着で粋がる
  そんな人がかってはいた」
    (題「かってあったやせがまん」)
 みんなが「凛として生きよう」とする気になる記念館の建設が望まれてならない。

(柳 路夫)