2008年(平成20年)3月10日号

No.388

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安全地帯(208)

信濃 太郎

才能とは逃げ出さないことである

 NHKのテレビドラマ「フルスイング」(1月19日から毎土曜日午後9時放映)を欠かさず熱心に見た。主人公高畠導宏の生き方に感動する。30年間のプロ野球の打撃コーチを経て59歳で高校の社会科教師として生徒を熱血指導する。教師生活はわずか1年足らず、がんのためこの世を去る(平成16年7月1日)。高畠が残した「才能とは逃げ出さないこと」「平凡の繰り返しが非凡になる」の遺訓は生徒たちに伝えられたと信ずる。
 第6回目の放映が終わった2月22日原作の本を読みたくなった。手にした門田陸将著「甲子園への遺言」(講談社)は初版・2005年6月30日、2008年2月20日発行で15刷を数えているベストセラーである。心に響く言葉がいっぱいあった。
 高畠はプロ野球で、人生そのもので大切な伸びるもの人の共通点を七つあげる。
1、 素直であること
2、 好奇心旺盛であること
3、 忍耐力があり、あきらめないこと
4、 準備を怠らないこと
5、 几帳面であること
6、 気配りができること
7、 夢を持ち目標を高く設定することができること
このほか高畠の観察力はすごい。たちまち相手投手の投球の癖を見抜いてしまう。
頭と目と集中力だと高畠はいう。
わが60年のジャーナリスト生活と照らし合わせてみる。真面目であったが素直ではな
かった。どちらかといえば頑固であり、あまのじゃくであった。上司であったある社会部長は「頑固で協調性なし」と私の目の前でのたもうた。それでもメキシコオリンッピクの責任者「メキシコ支局長」(昭和43年)にしてくれた。「貯金するな、遊び、本を読め」の先輩の教えを拳拳服用した。お芝居、音楽、本は私の体の滋養となり、長生きのもととなったように思う。陸軍士官学校で学んだ「作戦要務令」「歩兵操典」は役に立った。社会部長(昭和51年3月から昭和52年4月)でロッキード事件を指揮したさには「なさざると遅疑逡巡するは指揮官のもっとも戒むるところなり」「戦闘部署の要訣は、決戦を企図する方面に適時必勝を期すべき兵力を集中するにあり」などを大いに活用して成果を上げた。西部本社代表になったとき編集、印刷など社員は800名であった。陸士時代、現地戦術で問われたのは部下を1万人持つ師団長の「決心」であった。原則は「決心、攻撃。重点は左」である。西部代表の決心は前進あるのみ。経営の重点は部数増であった。兵科歩兵の私は「退く戦術われ知らず/見よや歩兵の操典を/前進前進また前進/肉弾とどくところまで」の「歩兵の歌」を口ずさんだものである。
おおざっぱな人間であった。大病しなかったせいか「思いやり」「気配り」があまりない。大連での中学校時代、寄宿舎生活を送り、戦後、新聞記者として派閥には属さず「一匹狼」で過ごしたのも関係があるのかもしれない。論説委員から社会部長、編集局長から取締役(昭和52年11月)、西部毎日会館社長からスポニチ社長(昭和63年12月)の節目節目で立派な人に巡り合わせたのは幸運であった。私の性格から見て「新聞記者」は天職であったということであろう。
高畠導宏はプロ野球の世界で延べ30人以上のタイトルホルダーを育て、日本初の「戦略コーチ」の名をいただいた。高校生の教え子たちには「どんなことがあってもあきらめない」という気力の教えを残した。私は何を残したのかそれは私が37年後に死んでから評価してくれるだろう。

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