2007年(平成19年)10月10日号

No.374

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追悼録(290)

「道場破り」の猿橋勝子さん

  亡くなった地球科学者、猿橋勝子さん(9月29日死去・享年87歳)が自分のことを「道場破り」と表現していると知って生前会っておけばよかったなと思った。面白そうな女性科学者であると感じたからである。彼女は1962年(昭和37年)、カリフォルニア大スクリップス海洋研究所で過ごした9カ月間をこう言っているという(産経新聞「産経抄」)。米国が昭和29年3月、南太平洋のビキニ環礁などで行った水爆実験で“死の灰”による海洋汚染が北太平洋全体に広がりつつあった。このことを世界に警告したのが三宅泰雄東京教育大学教授であった。気象庁も「各地で放射能が増加」と発表する(昭和36年9月)。「日本の測定値がおかしい」と反発がアメリカの学者から出たため、単身送り込まれたのが三宅教授の愛弟子の猿橋さんであった。そこで日本の測定値が正確なることを見事に実証、アメリカの鼻を明かす。
 ビキニ環礁での水爆実験ではいやな思い出がある。第五福龍丸が被爆したニュースを読売新聞に抜かれたのは社会部で宿直の日であった。読売の動きで夜中右往左往させられた。
このころから次第に新聞社に科学記者の存在や科学部の創設が注目されだした。もともと科学記事は小さな扱いを受ける。その価値がわからないからである。昭和20年7月21日の原爆実験成功にしろ、共同電が一段で「新型爆弾の実験に成功」と日本に伝えられたにすぎない。ウラニウム原子核に中性子を命中させると核が分裂する事実が実験的に確認されたのは1934年(昭和14年)1月である。それから6年後に実用の段階に達し、日本は広島、長崎で惨禍に見舞われる。
 昭和20年8月、原爆で廃墟と化した広島の駅前を歩きながら当時東大助教授であった黒田和夫さんは学問的な“かたき討ち”を決心する。「プルトニウムのような新元素の発見は、本来学会で発表するものなのに、いきなり民衆の上で爆発させるのは許せない」というわけである(「昭和群像」毎日新聞社編)。米アーカンソー大学教授時代、ビキニ環礁の核実験で水爆のなかにプルトニウム244があるのを知る。核爆発でプルトニウム244ができるなら、自然界の星の爆発でこの元素ができてもおかしくない。その痕跡がいまでもつかめるかもしれないとして、その痕跡を隕石中のキセノン元素に注目する。それを分析して実験的に証明した。昭和40年のことである。「広島の夢」が20年ぶりに実現した。かくてプルトニウムは人工元素から天然元素に仲間入りした。
 「女性初」の称号が付いて回った猿橋さんは女性記者がそうであるように「男社会」に悩まされた。女性研究者に贈られる「猿橋賞」を自ら創設したのは何よりの証拠である。賞はすでに27回を数える。いまだにこの学会は「男社会」である。日本社会は当分、猿橋さんのような「反骨」と「頑張り」を必要とするようである。

(柳 路夫)

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