2007年(平成19年)2月10号

No.350

銀座一丁目新聞

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花ある風景(265)

並木 徹

井上ひさし作の「私はだれでしょう」

  井上ひさし作・栗山民也演出・こまつ座の「私はだれでしょう」を見る(1月30日・紀伊国屋サザンシアター・2月25日まで上演)。
<とき> 昭和21年7月から22年11月まで1年5ヶ月間の出来事。
<ところ> 国電新橋駅から歩いて5分、内幸町の日本放送協会東京放送会館2階の脚本斑分室と放送用語調査室。当時4、5、6階はGHQに接収されていた。
 参考のためこの頃のNHKの動きを見る。ラジオ聴取契約数538万1696。昭和21年9月1日聴取料5円となる。10月13日、5日から21日間続いた放送ストに対して新潟県岩船村の農民が米の供出を拒否すると決議。ラジオは農民のたった一つの楽しみ。その楽しみを奪うならこちらもやるというわけ。劇では高橋勝介(25)=北村有起哉=が同協会の従業員組合書記として活躍する。12月3日、初のクイズ番組「話の泉」の放送はじまる(昭和39年3月末まで873回)。昭和22年7月1日ラジオドラマ「向こう三軒両隣り」(昭和28年4月10日まで1377回)。4月22日ラジオ番組「街頭録音」(前年6月3日から放送開始)でラク町のおとき・夜嵐アケミなど東京・有楽町付近のヤミの女の声を放送、この頃ヤミの女の数は全国で15万人といわれた。9月1日、GHQの司令でラジオ体操が中止(前年4月14日再開されたばかりであった)。昭和26年5月にまた再開される。11月1日、クイズ番組「20の扉」放送開始(昭和35年4月2日まで538回)(「昭和家庭史年表1926〜1989」家庭綜合研究会編参照)。
 昭和21年7月「訪ね人」の新番組が脚本斑分室長元アナウンサー川北京子(33)=浅野ゆう子=で始まる。戦後の混乱期、肉親・知人を捜し求める投書が殺到、「訪ね人」の聴取率は90パーセントを超える。
 井上さんのお芝居は出演者、皆が主役である。「言葉」が命。蜘蛛の糸のようにみなつながり、からみあう。「私はだれでしょう」と陸軍戸塚病院の患者で山田太郎(川平慈英)という若者がと飛び込んでくる。番組「訪ね人」は時には悪用もされる。山田は高崎の山田組の組長の御曹司にされ、あやふく指をツメされそうになったり、長野県北佐久の農村の地主の孫にされ、農業に精を出したりする。山田は玉砕のサイパン島で気を失い、氣がついてみればアメリカ軍捕虜収容所のベットの上であった。記憶を喪失した山田は時間の経過と人と交わるうちに昔の記憶が少しづつ取り戻してくる。巧みにこなすタップダンスが組長の御曹司や地主の孫であるのを否定する。川平慈英は実に上手い。初めての井上作品出演。この出演は勲章ものだと思う。
浅野ゆう子もいい。GHQの民間情報局ラジオ担当官、日系二世フランク馬場(32)=佐々木蔵之助=と組んで禁じられている広島原爆被害者の「尋ね人」を放送する。川北の弟はパイロットで特攻を命ぜられるが上官に抗弁する。「一人のパイロットの身体には、時間と費用と猛訓練の汗とが大量に注ぎ込まれている。その貴重なパイロットを一回限りの攻撃でしなせてしまっていいのか。自分にちゃんとした飛行機と爆弾を下さい。10回でも20回でも出撃しての敵艦を沈めてみせる。一回限りの使い捨ては、自分たちに無駄死にせよと命じられるのと同じである。無駄死には拒否する」と自決する。遺族のもとへ赤い縄を十文字にかけられた粗末な木箱が届く。元アナウンサー山本三枝子(35)=梅沢昌代=相変わらず達者な演技を見せる。内職に内村幸子の名前で小説を書く。放送用語調査室主任、佐久間岩雄(42)=大鷹明良=とテンポよくやりあう。後で山本が佐久間がやっている戯曲の添削講座の生徒とわかって大笑いさせる。一番若い分室員脇村圭子(21)=前田亜季=親の古書店を手伝うしっかり者でテキパキした様がよく出ていた。ひよんなことから山田太郎は偽名で父は陸軍少将。本人も幼年学校・陸士を経て中野学校で教育を受けた軍人とわかる。川北とフランク馬場は占領目的妨害罪で憲兵隊に逮捕される。
 時代は混沌。人々は食うに精一杯。日本自体が大きく変わろうとしていた。公職追放(昭和21年1月4日)財閥解体(昭和20年9月22日から昭和22年9月26日まで4大財閥他)「新憲法」(昭和21年11月3日)「教育改革」(昭和22年3月31日教育基本法公布)「東京裁判」(昭和21年5月3日開廷、昭和23年11月12日絞首刑7人、終身禁固刑16人、有期刑2人の25人全員に有罪の判決)「労働争議」(昭和22年2・1ストなど)。誰もが自分は何処へ行くのか判らない時代であった。「私は誰でしょう」とは自分自身に常に発せられた言葉である。その回答を自分で見つけるほかあるまい。

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